伝記
桂太郎は、1848年1月4日(弘化4年11月28日)、長州藩士桂与一右衛門の二男として長門国萩城下の平安古に生まれた日本の陸軍軍人・政治家である。毛利家の重臣だった桂家の出身で、幼名を寿熊といい、号は海城、諱は清澄。井上馨とは義理の親子の関係にあり、児玉源太郎、川上操六とともに「明治陸軍の三羽烏」と称された。1860年に藩の西洋式操練に参加して鼓隊に入り、1864年、禁門の変などで藩が窮地に立つなかで、世子毛利元徳の小姓役となった。第2次長州征伐には志願して石州方面で戦った。戊辰戦争では奥羽鎮撫副総督の参謀添役や第二大隊司令として奥羽各地を転戦し、秋田戦争では弘前藩に入藩を拒まれ、東北諸藩を説得できなかったふがいなさに自殺も考えたが、久保田藩を新政府側につけることに成功した。部下約200人のうち戦死者は41人、負傷者は53人にのぼったが、隊長の桂はかすり傷一つ負わなかったという。戦後は軍功で賞典禄250石を受けた。
1870年8月、賞典禄を元手にした私費でドイツに留学した。生活は苦しく、使節団で来訪した木戸孝允を訪ねて官費留学への切り替えを頼み、木戸は1873年7月に手続きをしたが、桂は10月に留学を打ち切って帰国した。1886年、伊藤博文内閣が経費節減を命じると、川上操六らと連名で、現役兵の帰休や代人料の復活に反対する建議書を陸軍大臣に提出した。軍制の抜本的な改革が必要だとする内容だった。1890年に陸軍次官となり、日清戦争には第3師団長として出征した。その後、台湾総督を経て陸軍大臣を務め、山縣有朋の参謀格として働いた。1900年の義和団の乱では中国に軍を出動させたが、国際関係と国内の政争に心労を覚えて転地療養に入った。
1901年6月、明治天皇に組閣を命じられて第1次桂内閣を発足させた。世間は「小山縣内閣」「第二流内閣」と揶揄したが、勅命が降下したのだから仕方がないという姿勢を貫いた。外相に小村寿太郎を起用して日英同盟を締結し、1904年の日露戦争では、明治天皇から戦争指導について諮詢を受けて強い信頼を得た。しかし国民の人気は得られず、ポーツマス条約への鬱積から日比谷焼打事件が起こった。その後は西園寺公望と交互に政権を担い、この時代は「桂園時代」と呼ばれる。第2次内閣(1908年7月~1911年8月)では、韓国併合や大逆事件による社会主義者の弾圧、関税自主権の回復による条約改正の達成などがあった。この間に山縣との間に亀裂が生じ、桂は反政友会勢力を結集させた「桂新党」も視野に入れて自立を図った。
明治天皇の崩御後、山縣は桂を内大臣兼侍従長として宮中に押し込めようとしたが、桂は二個師団増設問題を利用し、第2次西園寺内閣の倒閣後に、山縣に自分を擁立せざるを得なくさせた。1912年12月に第3次内閣を組織したが、第一次護憲運動が起こり、新政党を立ち上げて対抗しようとしたものの、翌1913年2月20日、わずか62日で退陣した。通算の首相在職日数は2,886日で、長く憲政史上最長だった。その後は病状が悪化し、10月10日に67歳で死去した。遺言による解剖で、死因は腹部に広がった癌と頭部の動脈血栓と診断された。葬儀は増上寺で行われ、8か月前に桂内閣を倒した民衆までもが大挙して押し寄せた。墓所は遺言により松陰神社に隣接して建てられた。
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