HISTORICAL PERSON · 1913年没

フェルディナン・ド・ソシュール

スイスの言語学者で、近代言語学の父といわれる。若くして印欧祖語の母音体系を論じ、その考えは後の喉音理論につながった。記号論を基礎づけ、構造主義思想やレヴィ=ストロース、バルトらに影響を与えた。

生涯
1913年没
死亡地
スイス連邦(ヴォー州 / ヴュフラン=ル=シャトー)
出生地
スイス連邦(ジュネーヴ)
出典
世界地図
スイス連邦(ヴォー州)

伝記

フェルディナン・ド・ソシュールは、1857年11月26日、スイスのジュネーヴの名門ソシュール家に生まれた言語学者で、「近代言語学の父」といわれる。記号論を基礎づけ、のちの構造主義思想に影響を与えた。家はフランス・ロレーヌ地方に起源をもち、ユグノーとなってのちジュネーヴに根づいた。曽祖父オラス=ベネディクトは1787年のモンブラン初登頂で知られ、22歳でジュネーヴ・アカデミーの教授となった人物である。父アンリは優れた昆虫学者、母ルイーズはジュネーヴの伯爵の娘で音楽家だった。弟子のメイエは、その家庭環境を、最高の知的教養が長く伝統となっているものと評した。幼くしてドイツ語、英語、ラテン語、ギリシア語を習得し、スイスの高名な言語学者ピクテに傾倒した。14歳で、ギリシア語、ラテン語、ドイツ語の単語を少数の語根にまとめる試論を書いた。誤りを含んでいたが、印欧祖語の語根の構造を捉えており、ブルークマンに先立って鼻音ソナントを見抜いていたと言える。

この試論の失敗から2年ほど言語学を離れ、1872年にコレージュ・ル・クルトル、翌年からギムナジウムに学んだ。1875年にジュネーヴ大学に入り、化学と物理学を学んだが、語学の授業を取るうちに言語学への関心を強めた。1876年にライプツィヒ大学へ留学し、青年文法学派の説を吸収した。自分が数年前に見抜いていた鼻音ソナントをブルークマンが発表して名声を得たことを知って落胆したが、自分の考えに自信をもった。1878年にベルリン大学へ移り、ホイットニーから生涯にわたる影響を受けた。同年12月に論文「印欧語族における母音の原始的体系に関する覚え書き」を発表した。発表当時の評価は高くなかったが、のちの喉音理論につながり、ヒッタイト語の解読によって現実のものとなった。1880年2月に学位論文「サンスクリットにおける絶対属格の用法について」を提出し、教授陣の全員一致で博士号を得た。

1880年10月からパリの高等研究院の学生となり、1881年10月にブレアルにその才能を認められ、ゴート語および古代高地ドイツ語の講師となった。学生数は9年間で計112人に及び、ポール・パシーやグラモン、メイエらがここから育った。パリ言語学会でも活発に活動し、1882年には副幹事となり、紀要の事実上の編集長を務めた。1891年、ブレアルは彼を後継者としてコレージュ・ド・フランスの正教授にしようとしたが、故郷ジュネーヴ大学にも教授の地位が用意されており、悩んだ末に帰郷を決めた。パリを離れるときには、ブレアルらの働きかけで、レジオンドヌール勲章が授けられた。

1891年10月にジュネーヴ大学の比較言語学特任教授となり、翌年にマリー・フェッシュと結婚して、二人の息子をもうけた。1894年の東洋語学者会議で、のちに「ソシュールの法則」と呼ばれる発見を発表したが、これが比較言語学の最後の業績となった。以後、言語学の研究は続けたものの、形にすることが少なくなり、ゲルマン神話や地名、詩のアナグラムなど周辺の分野の研究資料が多数見つかっている。1906年に一般言語学の講義を任され、1907年、1908年~1909年、1910年~1911年の3回講義した。これをまとめたものが、のちに『一般言語学講義』として出版された。通時言語学と共時言語学、ラングとパロール、シニフィアンとシニフィエといった二分法の概念を用いた。1912年夏に健康を害して療養に入り、1913年2月22日に死去した。

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