伝記
アウグスト・ベーベルは、1840年2月22日、ケルン対岸のドイツ地区で、プロイセンの陸軍下士官の息子として生まれた、ドイツの社会主義者である。ドイツ社会民主党の創設者のひとりで、四十年以上にわたり労働者運動の指導者だった。母は女中でヴェッツラーの樽職人の娘だった。一家は要塞の砲郭の一室で貧しく暮らし、六歳のときに父を、十三歳のときに母を失い、いずれも結核が原因だった。兄弟とともに無一文になった彼は、ヴェッツラーの伯母に引き取られ、1854年に国民学校を終えたが、進学の資金はなく、母の友人だった親方のもとで三年間、旋盤工の徒弟奉公に入った。修行は過酷で、報酬も食事もわずかだった。1858年2月に職人となり、旅に出て、南ドイツやオーストリアの町で働いた。
シュパイアー、フライブルクと移り、そこでカトリック職人組合に加入した。これは道徳と文化の指導を与える職人の団体のひとつで、キリスト教社会主義の思想に触れた経験が、のちの進歩的な考えの土台になったと考えられる。1860年までザルツブルクで過ごし、3月に母の故郷に戻った。同年5月7日にライプツィヒに着いた。当時は政治にも社会主義理論にも無知で、まず仲間の職人を組織し、食事と労働条件の改善を雇い主に認めさせた。翌1861年に職人教化組合に加入し、2月19日のライプツィヒ労働者教育協会の設立集会にも出席した。当初は保守的で非政治的な多数派に同調し、1863年になっても、労働者はまだ政治的に成熟していないとして、男子普通選挙の必要を確信していなかった。
1863年6月のフランクフルトでの労働組合会議には、ライプツィヒ労働者教育協会の代表として出席した。使用者と非使用者の協調が可能だと信じていた彼は、労働者は政治上独立の態度をとるべきだと主張するラッサールに反対していた。ラッサールの死後の1864年10月、ライプツィヒでの第2回労働組合会議で議長となり、常任委員に選ばれた。1865年のライプツィヒのストライキで調停を試みたとき、有名な自由主義者たちが日頃の言動を裏切って労働者の要求に反対するのを知った。同年7月、プロイセンから追放されたヴィルヘルム・リープクネヒトがライプツィヒに来たのをきっかけに親友となり、感化されてマルクス主義者になり、翌年には発足した第一インターナショナルに加入した。リープクネヒトとともに、1866年にザクセン人民党を創設し、翌年には北ドイツ連邦議会議員選挙に出馬して当選し、1871年からはドイツ帝国の国会議員となった。
普仏戦争のさなかの1870年に軍事公債の発行に反対し、リープクネヒトとともに大逆罪などで逮捕され、禁固刑に処された。この戦争のなかで、アルザス・ロレーヌの併合に反対して名を知られ、1872年に大逆罪で有罪となった。1875年にラッサール派の全ドイツ労働者協会とアイゼナハ派の社会民主労働者党がゴータ大会で合同し、のちのドイツ社会民主党が成立した。社会主義者鎮圧法の時代には党の中心人物となり、スイスに亡命して迫害の年月を導き、党の統一を保った。1890年に党名が社会民主党になり、1891年にはエンゲルスやカウツキーらとともにエルフルト綱領の確立に尽力した。1879年の著書『婦人論』も女性の権利を訴えて広く読まれた。1903年のドレスデン党大会ではカウツキーらとともに主導権を確立した。1893年から死ぬまで党幹部会議長を務め、第二インターナショナルでも指導的な役割を果たし、1913年8月13日にスイスの保養地で死去した。チューリッヒでの葬儀には、国際的な指導者が参列した。
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