HISTORICAL PERSON · 1913年没

ジョン・モルガン

アメリカの金融王でモルガン財閥の創始者。経営難の鉄道を再建して統合するモルガニゼーションの手法で知られ、USスチールを設立した。1895年には財務省への金の調達をクリーブランド大統領から要請された。

生涯
1913年没
死亡地
イタリア共和国(ローマ県 / ローマ)
出生地
アメリカ合衆国(ハートフォード)
出典
世界地図
イタリア共和国(ローマ県)

伝記

ジョン・ピアポント・モルガンは、1837年4月17日にコネチカット州ハートフォードで生まれ、1913年3月31日に没した、アメリカのモルガン財閥の創始者で、金融王と称えられた。父は銀行家ジューニアス・スペンサー・モルガン、母は牧師の娘ジュリエット・ピアポントだった。父から種々の教育を授けられ、1848年にハートフォードの公立学校に転じたのち、チェシャの英国国教会アカデミーに首席で進学した。1851年9月には数学に秀でたイングリッシュ・ハイスクールに入学した。1852年9月にリウマチ熱にかかって歩けなくなり、父が船を手配して、アゾレス諸島で転地療養をした。約一年後に回復してボストンに戻った。卒業後は父の勧めでスイスのヴェヴェイ近くの学校に進み、流暢なフランス語を身につけたのち、ドイツ語を学ぶためゲッティンゲン大学に進学した。六か月で上達し、ロンドンに戻って学業を修了した。

1857年に父の銀行のロンドン支店に入社し、翌年ニューヨークに移って、ジョージ・ピーボディ商会のアメリカ代理店に勤めた。1860年にJ・P・モルガン商会を設立し、父の会社のニューヨーク代理店の役割を果たした。南北戦争の時代には、旧式のライフルを一挺3.50ドルで買い、改良して22ドルで北軍に売却してスキャンダルになった。モルガン自身は他の富裕層同様、1000ドルを代理人に払って兵役を免れていた。1864年にダブニー・モルガン商会をつくり、1871年にフィラデルフィアの銀行家ドレクセルと提携してドレクセル・モルガン商会を設立した。ドレクセルが1893年に死去したのち、1895年にJ・P・モルガン商会となった。

1869年にはジェイ・グールドらからアルバニー・アンド・サスケハナ鉄道の経営を奪い、鉄道への投資に深く関わるようになった。1885年にニューヨーク・ウェスト・ショア・アンド・バッファロー鉄道を再建し、1886年にフィラデルフィア・アンド・レディング鉄道を、1888年にチェサピーク・アンド・オハイオ鉄道を再建した。1887年に州際通商法が成立すると、1889年と1890年に鉄道会社の首脳を集めて会議を開き、新法に合わせた営業と、安定した運賃を維持する協定を結んだ。経営困難に陥った鉄道を再建し、事業の骨格と経営を再編して利益を出せるようにするこの手法は、モルガニゼーションと呼ばれた。1895年には、1893年恐慌で金の海外流出が続き財務省の金が底を突きかけたため、クリーブランド大統領の要請でウォール街のシンジケートを組織し、財務省に金を調達して救済した。

1901年にはカーネギー・スチールなどを合併してUSスチールを設立した。カーネギー・スチールの買収額は4億8700万ドルで、USスチールは世界初の十億ドル企業となった。この年にはハリマンとの間でシカゴ・バーリントン・アンド・クインシー鉄道の争奪戦が起こり、株式の異常高騰を誘って1901年恐慌に発展した。セオドア・ルーズベルト大統領は不当なトラストにシャーマン反トラスト法を発動し、1902年にモルガンが支配する鉄道トラスト、北方証券会社を起訴して、同社は解散を余儀なくされた。1902年には大西洋の海運の統合を目指して国際海運商事を設立し、これはタイタニックを建造・就航させたホワイト・スター・ラインの親会社である。1907年恐慌の処理では主導的な役割を演じ、1910年11月には連邦準備制度の設立に向けた秘密会議を主催した。1912年12月にはプジョー委員会で証言し、翌年の1913年3月31日に死去した。

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