伝記
ヨアンネス・ゾナラスは、1070年ごろに生まれ、1140年ごろに没したとされる東ローマ帝国の歴史家、年代記作者、神学者である。コンスタンティノープルで暮らした。皇帝アレクシオス1世コムネノスのもとで、最高裁判官と皇帝の私設秘書官(プロタセークレーティス)を務めたが、アレクシオスの死後は職を退き、トゥズラ湾のイチジク島(ハギア・グリュケリア島)にある修道院に引きこもって、残りの生涯を著述に費やした。
その生涯について、ほとんどわかっていない。自身の著作から推測できることがあるだけである。ゾナラスは、ある皇帝の2度目の結婚を「見た」と述べている。これは1078年末のニケフォロス3世とマリア・アラニアの結婚を指すともいわれるが、1161年のマヌエル1世とアンティオキアのマリアの結婚だとすれば、没年はかなり遅くなる。ヨハネス2世コムネノス(在位1118年から1143年)に仕えたかどうかも、はっきりしない。ただ、ゾナラスの『歴史概要』は、コンスタンティノス・マナセスの年代記のもとになった。この年代記は、セバストクラトール、アンドロニコス・コムネノスの未亡人イレーネ・コムネネの依頼で書かれたもので、イレーネは1153年かその少し前に没しているから、この年代記はそれ以前に書かれたはずである。イレーネは、すでにゾナラスの『歴史概要』を読んでいたために、あえて短い年代記を求めたとも考えられる。そこから、ゾナラスは1145年までには亡くなっていたとも推測されている。
最も重要な著作は『歴史概要』で、18巻からなり、天地創造からアレクシオスの死(1118年)までを扱う。前半部分は、おもにヨセフスに拠っている。ローマ史については、3世紀初めまでカッシウス・ディオにおもに従った。現代の研究者は、3世紀と4世紀についての記述に特に関心を寄せている。それが、今は失われた史料に拠っており、その性質が激しく論じられているためである。ゾナラスの歴史書で、最も独自の部分は、アレクシオス1世の治世を扱った箇所である。ゾナラスは、アレクシオスが一族の者に広大な領地や重要な官職をゆだねたことを批判している。彼の歴史は、ニケタス・アコミナトスによって引き継がれた。
ゾナラスには、教会関係の著作もあるとされる。教父たちや、ナジアンゾスのグレゴリオスの詩への注釈、聖人伝、使徒規範についての論文である。修道士として引退したのちには、アトス山の修道院に移ったともいわれ、そこで東方正教会の規範についての注釈も書いたといわれる。その中で、さいころ遊びを聖職者にも信徒にも禁じた五六公会議の第50規範について論じ、禁止をチェスにも広げた。チェスやさいころや深酒にふける司教や聖職者は、やめなければ追放され、信徒も同じことにふければ締め出される、というのである。これは、このゲームに対する、正教会で最初の教会としての非難であった。
同じ年に亡くなった人物
- ガッルス・アノニムス (1145年)
- チボリのプラト (1145年)
- Uros I of Rascia (1145年没)
- ルキウス2世 (ローマ教皇) (1145年没)
- ターシュフィーン・イブン・アリー (1145年没)
同じ地域に関係する人物
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- Cem Karaca (2004年没)
- ミマール・スィナン (1588年没)
- Rabia Sermi Kadin (1732年没)
- ソフィア (600年没)