伝記
ミマール・スィナンは、盛期オスマン帝国の建築家の中でも最も著名な人物である。名のスィナンに、建築家を意味する語ミマールが付いた呼び名で、「建築家スィナン」の意になる。晩年に友人の文人に自分の若いころの仕事を語って書き取らせ、5つの自伝的回顧録を残しており、それに基づいて1490年ごろにアナトリア半島のカイセリ近くの小さな町で生まれたと推定されている。ただし1494年から1499年の間とする説もある。
家はキリスト教徒の石工で、洗礼名はヨセフであった。父の仕事を手伝いながら成長し、建築の実際的な事柄について十分な基礎知識を得ていたとみられる。1512年、非ムスリムの子弟を徴用して改宗させ、常備軍歩兵イェニチェリの士官に育てるデヴシルメの制度によって徴用された。士官養成の寄宿学校に入るには年齢が高すぎたため、予備校に送られ、大宰相パルガル・イブラヒム・パシャに見習いとして仕えたとする史料もある。大工仕事と数学を習ったが、資質とやる気を見込まれてすぐに棟梁の補佐に取り立てられ、建築家としての修行を積んだ。1518年ごろまでの6年間を士官見習いとして過ごしたという。
その後はセリム1世のロドス島侵攻、スレイマン1世によるベオグラード攻略戦に従軍し、ハンガリー侵攻ではモハーチの戦いの戦場にもいた。近衛隊の隊長に昇進し、のちには第62ライフル銃オルタを率いた。1535年にはバグダード方面への遠征に近衛兵の指揮官として従軍し、サファヴィー朝イランへの遠征ではヴァン湖を渡るための船を建造した。この功でスルタンの近衛隊の隊長の地位を得たという。東欧への遠征ではドナウ川を渡る橋など、防御施設や橋梁の建設を支援し、前線で土木工学の実践的な経験を積んだ。セリム1世、スレイマン1世、セリム2世、ムラト3世の4代のスルタンに仕え、軍歴は50年近くに及んだ。
1539年、大宰相チェレビー・リュトフィー・パシャが、以前の部下だったスィナンを、住宅建築を供給する役所の長官に任じた。これが偉大な業績の第一歩となった。スィナンは何年もかけて役所を、上位の省より大きな権力を持つ精緻な組織に作り変え、見習いや徒弟も含む建築家集団全体の長になった。50歳ごろに帝室造営局長に任命され、以後50年近くその職にあって、帝国のすべての建築事業を監督した。手がけた建築物は、モスク92、マドラサ55、宮殿36、公共浴場48など合計374に及ぶとされる。ただしモスク79棟、宮殿34棟、公衆浴場33棟とする数え方もあり、数字は一定しない。
自伝で自らの仕事を、徒弟の時代、職人の時代、親方の時代の3つに分けている。職人の時代の頂点がスレイマニエ・ジャーミイ、親方の時代の頂点がエディルネのセリミーエ・ジャーミイで、後者はスィナン自身が最高傑作と認めた。ドーム建築では半ドームや柱、側廊などの組み合わせを試し、幾何学的な純粋さと機能性、統合された空間を求めた。モスクをキュッリエという複合施設に組み込み、学びや衛生の場としても機能させた。橋や水道にも優れた作品を残し、1588年7月17日にイスタンブルで没した。自身の霊廟は、スレイマニエ・ジャーミイの建築群の北東にあり、非常に簡素なつくりである。
同じ年に亡くなった人物
- アロンソ・サンチェス・コエリョ (1588年没)
- ジョルジオ・ブランドラタ (1588年)
- ニコラス・モナルデス (1588年)
- パオロ・ヴェロネーゼ (1588年没)
- ルイ・ド・ロレーヌ (1555-1588) (1588年没)
同じ地域に関係する人物
- アリ・フアト・ジェベソイ (1968年没)
- ハリデ・エディプ・アドゥヴァル (1964年没)
- フルス・ベーチェット (1947年没)
- ゼノン (東ローマ皇帝) (491年没)
- アルカディウス (408年没)