伝記
斡啜(ウジュ)は、女真人の王朝である金の皇族で、軍人であり、のちには高官としても活躍した人物である。兀朮、烏珠とも書かれ、漢名は宗弼という。金の初代皇帝である太祖阿骨打(アクダ)の四男で、母は阿骨打の側室のひとりである烏古論氏であった。同じ母から、ほかに阿魯、阿魯補の二人の兄弟が生まれている。生まれた年は分からない。太祖、叔父の太宗、甥の熙宗と、3代の皇帝に仕えた。1121年12月、まだ十代であった斡啜は、遼との戦いに加わった。遼の天祚帝が鴛鴦濼で狩りに出ているという知らせを受け、斡離不(ウリブ、宗望)とともに軍を率いて、不意をつこうと襲いかかった。斡啜は矢を射尽くすと遼の兵の武器を奪って戦い続け、8人を殺し、5人を捕らえて、この戦いで名を知られた。
1125年、金と北宋との戦争が始まると、斡啜は、兄の斡離不が率いる東路軍の将校として従軍した。1126年の1月には、斡離不の命で湯陰県を攻め、3000人の宋の守兵を降伏させた。その後、3000の軽騎兵を率いて開封に迫った。北宋の皇帝徽宗が、子の欽宗に位をゆずって開封を離れたと聞いて追ったが、捕らえることはできなかった。それでも馬3000頭を手に入れた。金軍が開封を包囲すると、北宋は太原、中山、河間の3州を金に割譲することを条件に和を求め、金軍は燕京へ引き揚げた。同年8月に斡啜は斡離不とともにふたたび北宋を攻め、翌1127年4月までに開封を落として、徽宗と欽宗を捕らえた。これが靖康の変で、北宋はここに滅んだ。
1127年6月に斡離不が病没すると、三番目の兄である訛里朶(宗輔)があとを継いだ。12月、斡啜は訛里朶が山東の反金の蜂起をしずめる戦いに加わり、青州で宋の将軍鄭宗孟の軍を破った。1128年1月には、撤退しようとした訛里朶の軍が青河で3万の宋軍に待ち伏せされ、斡啜は先頭に立って敵に攻めかかった。その後、江南に逃れた康王趙構(高宗)が南宋を建てると、叔父の太宗の厳命で長江を越えて追撃したが、深入りしすぎて引き揚げに苦労し、鎮江と揚州のあいだで宋の将軍韓世忠らの軍に敗れた。1131年には、ふたたび陝西攻略の作戦を起こして、これを攻略した。
1137年、熙宗はこれまでの功績をたたえて、斡啜を瀋王・右副元帥に封じた。これによって斡啜は金の軍事の権限を全面的に握った。1138年には、ふたたび南宋に遠征し、岳飛や韓世忠らと戦いそうになったが、酷暑のために両軍が退いた。その後も、都元帥、太保、領行台尚書省を歴任し、政治家としての力も認められて、尚書、左丞相、侍中に昇進した。異母兄の斡本(宗幹)とともに、金の頂点に立った。1140年には、また南宋に遠征し、河南の南部を奪い返した。
斡啜は1148年に没した。病気によるとされる。熙宗は、先に亡くなった兄の斡本と同じく、斡啜に忠烈王の諡号を贈り、梁王に昇格させた。
同じ年に亡くなった人物
- ピエトロ・ポラニ (1148年)
- マルグリット・ド・クレルモン (1148年(推定))
- William of St-Thierry (1148年没)
- ルッジェーロ3世 (プッリャ公) (1148年没)
- ギヨーム2世 (ヌヴェール伯) (1148年没)
同じ地域に関係する人物
該当人物はまだありません。