伝記
ジョン・ミューアは、1838年4月21日にスコットランドのダンバーで生まれ、1914年12月24日に没したアメリカ合衆国のナチュラリスト、作家である。信仰の篤い食料品商の長男として育ち、厳格な父ダニエルは、息子に新約聖書の全文と旧約聖書の多くを暗唱させた。少年のころから自然への強い好奇心を持ち、田舎を歩き回って動植物を観察した。木工を駆使した発明も数多く手がけ、正確に時を刻む木製時計や、朝早く自分をベッドから押し出す機械などを作った。1849年、一家はアメリカへ移住し、ウィスコンシン州ポーテージ近郊の農場に落ち着いた。父は家族全員を早朝から夕暮れまで農作業に従事させたが、ミューアと弟は許された短い時間で野原や森を探索し、自然への愛着を深めた。
1860年、22歳のミューアは、ウィスコンシン州の農業博覧会に自作の発明品を出して賞賛を集めた。同年ウィスコンシン大学マディソン校に入り、独学で費用を工面しながら植物学、地質学、化学を学んだ。1863年には南北戦争の徴兵を避けてカナダに渡り、ジョージア湾周辺の森で植物を採集した。1866年にアメリカへ戻り、インディアナポリスの馬車車輪工場で働き、発明の才を認められて監督になった。しかし1867年3月、工具が滑って右目の角膜を傷つけ、両目の視力を一時的に失った。暗室で6週間を過ごして回復した経験を人生の転機とし、機械の世界を離れて自然の探究に残りの人生を捧げると決意した。同年9月、ケンタッキーからフロリダの湾岸まで約1,600キロを歩く旅に出て、その記録は没後に『湾岸への千マイルの歩行』(1916年)として出版された。
その後キューバ、パナマを経て西海岸を北上し、1868年3月にサンフランシスコに上陸して、カリフォルニアが終生の故郷となった。同年ヨセミテ渓谷とシエラネバダ山脈を初めて訪れ、約6年をそこでの探索に費やし、羊飼いや案内人をして自活した。1871年にシエラで現存する氷河を発見し、ヨセミテ渓谷が氷河の作用でできたという説を唱えたが、当時の地質学界では異論が多かった。この年、思想家エマソンがヨセミテを訪れ、ミューアと交流した。1874年から雑誌『センチュリー』に連載記事を書き、著述家としての名声を確立した。1879年に最初のアラスカ探検に出かけ、グレーシャー・ベイの氷河を調べた。ルイ・ウォンダ・ストレンツェルと1880年4月14日に結婚し、マルティネスの果樹農園に移って、二人の娘をもうけた。
1889年、センチュリー誌の副編集長とヨセミテに同行し、羊や牛の過放牧で荒れた山の草地と森林を目にした。これを契機に、ヨセミテの国立公園化を訴える運動を始め、1890年にヨセミテ国立公園が設立された。1892年5月28日にはサンフランシスコでシエラクラブを創設し、初代会長になった。1903年にはセオドア・ルーズベルト大統領と3泊4日でヨセミテにキャンプし、ウィルダネスの重要性を直接訴えた。ルーズベルト政権のもとで、多数の国立公園や国定記念物の設定が進んだ。最大の敗北は、ヘッチ・ヘッチー渓谷のダム化をめぐる論争で、サンフランシスコ市の水源確保のための計画に長年反対したが、1913年に議会が承認した。翌年、短い病気ののち、ロサンゼルスの病院で76歳で亡くなり、訃報はニューヨーク・タイムズ紙の一面に載った。「自然保護の父」と呼ばれ、ヨセミテから延びる「ジョン・ミューア・トレイル」は彼の名を冠している。
同じ年に亡くなった人物
- ジェイコブ・リース (1914年没)
- ジャン=バティスト・フォール (1914年没)
- Rafqa Pietra Choboq Ar-Rayes (1914年没)
- ゾフィー・ホテク (1914年没)
- テオドール・キッテルセン (1914年没)
同じ地域に関係する人物
- ベニー・カーター (2003年没)
- トニー・ウィリアムス (1997年没)
- エドワード・ソジャ (2015年没)
- チャック・イェーガー (2020年没)
- ベティ・カンプソン (1974年没)