伝記
レーモン2世は、1116年ごろに生まれ、1152年に没した、1137年から1152年までのトリポリ伯である。トリポリ伯ポンスと妃セシル・ド・フランスの長男で、誕生の年月ははっきりしない。歴史家ギヨーム・ド・ティールは、父が亡くなったころ、レーモンはすでに青年だったと記している。1130年代前半には、弟のフィリップとともに父の公式文書に名を連ねており、1127年には、エルサレム王ボードゥアン2世の娘オディエルナとの婚約が、すでに結ばれていた可能性も指摘されている。
1137年3月、ダマスカスのムスリム軍がトリポリに侵攻し、迎え撃ったポンス伯は敗れた。逃げ出したポンスは、現地のキリスト教徒に捕らえられてムスリム軍の指揮官に引き渡され、3月25日に処刑された。跡を継いだレーモン2世は、父の仇を討つため、レバノン山脈一帯に攻め入り、父を裏切ったキリスト教徒の多くを捕らえた。捕らわれた人々の多くは、トリポリで拷問を受けて処刑された。同年7月、北シリアを治めるザンギーが侵攻してモンフェラン城を包囲した。レーモンはエルサレム王フルクに急使を送って援軍を求めたが、アンティオキア公国にもビザンツ軍が攻め入ったとの報が届いた。そこで十字軍は、包囲中のザンギー軍を先に破ることにした。ところがザンギーは包囲を解き、急襲をかけて連合軍を大敗させた。レーモンを含む多くの戦士が捕らえられ、フルクはモンフェラン城に逃げ込んだ。やがて救援軍が向かっていることを知ったザンギーが交渉に入り、モンフェラン城の明け渡しと引き換えに、捕虜たちは解放された。
1138年、ヨハネス2世コムネノスが北シリアに遠征したが、レーモンは参加しなかった。大敗の後、トリポリ伯国には十分な兵が残っていなかったためと考えられている。1142年には、東部の国境地帯の城塞を、ホスピタル騎士団に譲り、守りを任せた。そこには「クルド人の要塞」と呼ばれた城も含まれ、のちにクラック・デ・シュヴァリエとなる。ただこの政策は、伯国の東方に独立した宗教勢力をつくる結果になった。1148年4月、第2回十字軍の指揮官の一人であった大叔父アルフォンス・ジュルダンが、上陸後まもなく急死し、レーモンによる毒殺という噂が立ったが、長い船旅による自然死とされる。アルフォンスの子ベルトランは、1149年夏に、トリポリ伯位の継承権を主張してアレイメ城を占領した。レーモンは、ダマスカスのウヌルやヌールッディーンの助けを借りてこれを取り戻し、のちにテンプル騎士団へ寄進した。
1150年には、トリポリに立ち寄ったエルサレム王ボードゥアン3世とともに北へ進み、ビザンツ皇帝マヌエル1世と会談した。1151年夏にはエジプト軍がトリポリを襲い、港の軍船を焼いた。1152年、ヌールッディーンがタルトゥースを占領して去ると、レーモンはタルトゥースを地元の男爵に、のちにテンプル騎士団に譲った。そのころ、妻オディエルナとの不和が深まり、オディエルナの姉のエルサレム女王メリザンドが仲裁に来たが、うまくいかず、オディエルナはメリザンドとともにエルサレムへ帰った。レーモンは一行を途中まで見送って引き返す途中、トリポリの南門で暗殺教団に殺された。同行していた二人の騎士も殺された。レーモンは、暗殺教団に殺された最初のキリスト教徒の支配者とされる。
同じ年に亡くなった人物
- マスウード (イラク・セルジューク朝) (1152年没)
- ラウル1世 (ヴェルマンドワ伯) (1152年没)
- コンラート1世 (ツェーリンゲン公) (1152年没)
- マティルド・ド・ブローニュ (1152年没)
- トレド大司教ライモンド (1152年)
同じ地域に関係する人物
- レーモン3世 (トリポリ伯) (1187年没)
- ユーグ1世 (キプロス王) (1218年没)
- オディエルナ (1162年没)
- Rafqa Pietra Choboq Ar-Rayes (1914年没)
- Nimattullah Kassab (1858年没)