HISTORICAL PERSON · 1218年没

ユーグ1世 (キプロス王)

父エメリーの後を継いで未成年でキプロス王となり、成人後に摂政ゴーティエを追及した。ルーム・セルジューク朝と商業保護の条約を結び、ホスピタル騎士団を重用。第5回十字軍に参加後、トリポリで没した。

生涯
1218年没
死亡地
レバノン共和国(北レバノン県 / トリポリ)
出生地
—
出典
世界地図
レバノン共和国(北レバノン県)

伝記

ユーグ1世は、13世紀初めにキプロス島を治めたキプロス王で、1205年4月1日から1218年1月10日まで在位した。1195年ごろに、キプロス王エメリー・ド・リュジニャンと、最初の妻でイブラン家の出身のエシーヴとのあいだに生まれた。父方の祖父ユーグ8世・ド・リュジニャンにちなんで名づけられた。エシーヴは、病気の療養先で、子どもたちとともに海賊カナケスに誘拐され、アンティオケッタへ連れて行かれたが、アルメニアのキリキアの統治者レオン2世の介入で解放され、コリコスの城に身を寄せた。エシーヴは、解放のまもなく亡くなった。

1197年、エメリーは、それまで敵だったシャンパーニュ伯アンリ2世と同盟を結んだ。アンリは、エルサレム女王イザベル1世の夫としてエルサレム王国を治めていた。エメリーの息子ギー、ジャン、ユーグを、アンリとイザベルの娘たちとそれぞれ結婚させることが決まった。ギーとジャンは若くして亡くなり、ユーグだけがエメリーの継承者として残った。1205年4月1日に、エメリーが食中毒で死ぬと、9歳のユーグがキプロス王に即位した。キプロス高等法院は、姉ブルギュンディアの夫ゴーティエ・ド・モンベリアールを摂政に任じ、ゴーティエは後見人も兼ねて、王国の最高権力者となった。もう1人の妹エルヴィスを、親族のウード・ド・ダンピエールと結婚させた。

ユーグは、13歳になった1208年から、結婚できる年齢となった。1206年に、ゴーティエの求めで、教皇インノケンティウス3世が、結婚の取り決めを調べるようエルサレム総大司教に命じた。ユーグは、1208年から1211年のあいだ、おそらく1210年に、アンリとイザベルの長女アリックスと結婚した。アリックスは、エルサレム王国の推定相続人で、シャンパーニュ伯領にも強い権利があった。1210年9月、成人したユーグは、ゴーティエを召喚し、未成年の自分を政治から遠ざけ、国庫の24万枚のベザント貨のうち4万枚を私的に流用したと責め、24万枚を要求した。ゴーティエは弁明せず、アンティオキア公の手引きで島を脱出して、エルサレム国王ジャン・ド・ブリエンヌの庇護のもと、エルサレム王国で暮らした。ゴーティエは教皇に書状を送り、ユーグが高等法院の判断なしに自分を追放し、財産を押収したと訴えた。

親政を始めたユーグは、ルーム・セルジューク朝と、両国の商人の安全な商業活動を保証する条約を結んだ。妹エルヴィスを、ボエモン4世の仇敵のもとに嫁がせた。エルヴィスは、ウードと離婚してから嫁いだとされる。ウードは、教皇に、この再婚への干渉を求めた。1213年のインノケンティウス3世の書状によれば、ユーグは、エルサレム王ジャンと対立する十字軍の諸侯を支援したという。教皇は、ジャンに対する敵意や、教会の人事への干渉についてもユーグをとがめた。治世のあいだ、ホスピタル騎士団を重く用い、即位するとすぐに、売買品への課税を免除した。1214年には、シリアで戦うホスピタル騎士団に援軍を送った。

1217年9月、第5回十字軍に参加し、ハンガリー王アンドラーシュ2世とともにガリラヤへ遠征した。キプロス島への帰途、トリポリに立ち寄り、1218年1月10日の異母妹の結婚式に出た。しかし式の最中に具合を悪くし、その地で亡くなった。遺体は、トリポリのホスピタル騎士団の教会に葬られ、のちにニコシアのホスピタル騎士団の教会へ移された。跡を継いだ幼い息子アンリ1世は、母アリックスの摂政のもとで王国を治めた。

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