伝記
アルノルド・ダ・ブレシアは、1090年から1100年ごろに生まれ、1155年に没した、中世イタリアの宗教改革者である。ロンバルディアのブレシアの出身で、両親や生い立ちは分かっていない。聖職者としての学業を終えると、ブレシアの教会の読師に任じられた。その後フランスに渡り、神学者ピエール・アベラールの講義を受けて、その教えを自分のものとした。教会は世俗の権力と財産を捨てて、福音の教えだけに専念すべきだと唱え、のちにアルノルド派と呼ばれる急進的な改革運動の指導者になった。
郷里に戻ったアルノルドは、一般の司祭たちと袂を分かって修道服を着た。聖職者が世俗の権力を行使することを否定したため、ブレシアの司教や聖職者たちに衝撃を与えた。ブレシアの修道院で院長を務めていた1137年には、司教マンフレッドに対する市民の反乱に加わった。聖職者についての改革の主張により、1139年に教皇インノケンティウス2世から分離主義者として断罪され、市から追放され、イタリアからも追われた。彼はフランスに戻ってアベラールを擁護し、1140年にはサンスの教会会議で、クレルヴォーのベルナルドゥスの働きかけにより、アベラールとともに異端として断罪された。その後もパリにとどまり、サント・ジュヌヴィエーヴの丘で学校を開いて、聖書を自由に講じ、聖職者の世俗的な生活や司教たちの強欲を批判した。ベルナルドゥスはフランス王ルイ7世に働きかけて、1141年にアルノルドを国外へ追放させた。彼はチューリヒへ逃れて、聖マルティン参事会の律修参事会員たちにかくまわれ、のちにはパッサウで教皇特使のグイドのもとに身を寄せた。
1143年から1145年にかけて、市民自治を求めて動乱の状態にあったローマで、アルノルドの考えに共鳴する人々が実権を握った。1144年には、シチリア王による教皇領侵入をきっかけに、貴族のジョルダーノ・ピエルレオーニに率いられたローマ市民が共和国を宣言した。反乱者たちは教皇と枢機卿を追い出し、古代の元老院を復活させた。1145年、アルノルドはローマに現れ、教皇の世俗の権力を否定し、共和政の古代ローマのように市民と貴族の代表者が治める元老院の統治を再興させた。のちに枢機卿グイドの仲立ちで教皇エウゲニウス3世と和解し、償いの巡礼としてローマへ送られたが、すぐに反乱者と手を結び、教皇と枢機卿への攻撃を再開した。彼は「世俗の権力を守るために武器を使う教皇は、もはや魂の牧者ではなく教会の処刑人であり、われわれの尊敬と服従を受ける権利を失う」と説いた。護民官の制度と騎士階級を復活させ、ローマに独立した自治体の体制を築こうとしたが、エウゲニウス3世によって破門された。
皇帝フリードリヒ1世に支援された、市民自治を認めないハドリアヌス4世が教皇になると、アルノルドの追放を求め、ローマ市に聖務停止を命じた。三日で市民は音を上げ、元老院はアルノルドを追放した。市民の罵倒のなか市外に出て、近郊の城にかくまわれたが、進軍してきた皇帝軍に捕らえられた。彼は、ローマで帝冠を受けにきたフリードリヒ1世に引き渡され、教会の法廷で異端として断罪され、縛り首にされたのち火刑に処された。遺灰は、民衆の崇敬を受けないように、テヴェレ川に捨てられた。
同じ年に亡くなった人物
- 近衛天皇 (1155年没)
- ダヴィト5世 (ジョージア王) (1155年)
- 藤原顕輔 (1155年没)
- バフラーム・シャー (1155年(推定))
- シグル2世 (ノルウェー王) (1155年没)
同じ地域に関係する人物
- リアネーラ・カレル (2000年没)
- コンスタンティヌス (ローマ教皇) (715年没)
- ルキウス・オクタウィウス (紀元前74年没)
- ルキウス・リキニウス・ルクッルス (紀元前56年没)
- アレッサンドロ・ファルネーゼ (枢機卿) (1589年没)