伝記
李清照は、北宋の末から南宋の初めにかけて生きた女性の詩人で、易安居士と号した。1084年に斉州章丘県(現在の山東省済南市章丘区)で生まれ、1155年ごろに没したとされる。中国史上を代表する女流の詞人として知られる。学者や官僚を出した家に生まれ、父の李格非は太学の教授で名の知れた文章家であり、蘇軾を中心とする文学の集まりに加わっていた。母は宰相王珪の家系の出で、すぐれた詩人でもあった。家には大きな蔵書があり、清照は幼いころから幅広い教育を受けることができた。10代のころから熱心に学び、友人の詩に韻を合わせた詩を2首作って、詩人としての歩みを始めた。1099年、16、17歳のころには、故郷での思い出をうたった「如夢令」を作った。これが最初の詩ともいわれる。
1101年、18歳のとき、3歳年上で当時太学の学生だった趙明誠と結婚した。夫は尚書右僕射趙挺之の子である。ふたりは詩や文学、青銅器や石に刻まれた文字、絵画、書を愛し、衣類を質に入れてまで本などを買うほどの蔵書家であった。夫が官職についてからは、家を空けることが多かった。ふたりは互いに詩を贈りあい、殷や周の青銅器についても詩を作った。夫との暮らしは幸せで、清照の詞風も落ち着いて優雅なものになった。のちに清照は、夫の『金石録』の編纂を手伝った。
しかし、金との戦いで幸せは終わった。1127年に北宋の都開封が陥落し、山東でも戦いが起こって、ふたりの家は焼かれた。ふたりは母の葬儀のために帰郷する途中であったともいい、十数の蔵に分けてあった蔵書は金軍の攻撃で焼かれた。人々とともに長江の南へ逃れ、持てるだけの品を持って南京に移り、1年ほど暮らした。1129年、夫は任地へ向かう途中に48歳で急死した。腸チフスだったという。残った蔵書も、金軍の兵火と流民の略奪でことごとく失われた。清照は立ち直れず、夫の死後はあてもなくさまよった。のちに、再婚した張汝舟に虐待されたあげく数か月で離別したと伝えられ、その非難も受けたが、乗り越えたという。
清照は新しい都の臨安(杭州)に落ち着き、詞を作り続けたが、のちの作品は夫と故郷への郷愁に満ちた。『金石録』を完成させる作業も続け、夫の死後に出た同書の後序に、結婚生活と逃亡の混乱を記した。71歳ごろで没したと広く信じられるが、記録は残っていない。作品の大半は動乱のなかで散逸し、残る詞は100首ほどで、詩の数首、後序、詞についての評論も残る。作風は、南に移るまでは少女の心を詠んだ恋の歌に近く、移ってからは戦への憎しみと愛国の思いに結びついた。朱熹は「当代の女性で文章に巧みなのは李易安と魏夫人だけ」と称え、清代には婉約派という宋詞の流派の宗匠とされ、中国の文学者鄭振鐸は、中国文学史上最も偉大な女流詩人と評した。
同じ年に亡くなった人物
- ボリス (1155年(推定))
- 秦檜 (1155年没)
- ダヴィト5世 (ジョージア王) (1155年)
- アルノルド・ダ・ブレシア (1155年没)
- バフラーム・シャー (1155年(推定))