伝記
エルビラ・デ・カスティーリャは、1079年から1082年ごろまでのあいだに生まれ、1151年以後、おそらく1157年4月より後に没したとされるトゥールーズ伯妃である。レオン・カスティーリャ王アルフォンソ6世と愛人ヒメナ・ムニョスとの庶出の娘で、のちにポルトガル伯夫人となるテレサの同母姉妹にあたる。両親は1078年ごろに結婚したが、夫婦のあいだに近親関係があり、教会の免除を受けていなかったため、結婚は無効とされていた。アルフォンソ6世はその後ブルゴーニュ家のコンスタンサと結婚したが、ヒメナを愛人として手元に置き、エルビラとテレサの2人の娘をもうけた。
1094年、父はエルビラをトゥールーズ伯レーモン4世に嫁がせた。カスティーリャ王にとっては、ライバルのアラゴン王に対抗する同盟を結ぶ意味があり、トゥールーズ伯にとっても、王女を妻にする名誉に加えて、持参金が大きかった。1095年の終わりに教皇が聖地解放のために諸侯に呼びかけると、レーモンは真っ先に応じて第1回十字軍の指導者の1人となり、1096年にはエルビラも夫に従って聖地へ向かった。レーモンはエルサレム占領ののち、トリポリの周辺に領地を得て、1102年からトリポリの町を包囲した。この包囲のあいだにエルビラは息子を産んだ。祖父にちなんでアルフォンソと名づけられ、ヨルダン川で洗礼を受けたため、ヨルダンの添え名で呼ばれた。夫妻の唯一の子である。夫妻はレーモンの死の前に別居したようである。
レーモンは1105年2月28日にトリポリで死去した。エルビラがそのときトリポリにいたとは記されていない。フランスの記述では、レーモンの従弟で副官のギヨーム・ド・セルダーニュが、1108年ごろにエルビラと息子をトゥールーズへ連れ戻させたが、エルビラは権力から遠ざけられたように見え、摂政として記録に現れることもないという。エルビラはカスティーリャへ戻り、1117年より前に、カリオン伯フェルナンド・フェルナンデスと再婚して、ディエゴ、ガルシア、テレサの3人の子をもうけた。この結婚は、1121年より前とも1124年より前ともいわれる時期に解消された。テレサは1140年より前にオソリオ・マルティネス伯と結婚した。
エルビラの最後の記録は、1157年4月にアストルガの大聖堂で、自分の所領のすべてから3分の1の寄進を行ったことである。まもなく死去したとみられる。遺体は、父アルフォンソ6世が何人かの妻とともに葬られたサアグンのサン・ベニート修道院へ運ばれた。聖母礼拝堂の足元に葬られ、その礼拝堂は彼女が聖堂と聖具室のあいだに建てさせたものだった。墓は現在は残っていないが、キリストと使徒たちの像が刻まれていたという。
同じ年に亡くなった人物
- エイステイン2世 (ノルウェー王) (1157年没)
- ディルク6世 (ホラント伯) (1157年没)
- クヌーズ5世 (デンマーク王) (1157年没)
- 尊者ピエール (1157年)
- コンラート1世 (マイセン辺境伯) (1157年没)
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