HISTORICAL PERSON · 1159年没

ベルタ・フォン・ズルツバッハ

ズルツバッハ伯の娘で、東ローマ皇帝マヌエル1世の皇后。ルッジェーロ2世に対抗する同盟のため、コンラート3世の縁者として推薦された。1146年に結婚し、穏やかさを称えられた。1159年の死を夫は嘆いた。

生涯
1159年没
死亡地
トルコ共和国(イスタンブール県 / コンスタンティノープル)
出生地
ドイツ連邦共和国(ズルツバッハ=ローゼンベルク)
出典
世界地図
トルコ共和国(イスタンブール県)

伝記

ベルタ・フォン・ズルツバッハは、東ローマ帝国の皇帝マヌエル1世コムネノスの最初の皇后である。ギリシャ名をエイレーネーという。生年は記録になく、1110年代の生まれとされる。姉ゲルトルートの結婚年齢と弟ゲープハルトの生年からみて、1111年から1113年ごろと推定されている。バイエルンのズルツバッハ伯ベレンガル2世と、妻アーデルハイト・フォン・ヴォルフラーツハウゼンの次女で、六人の子のうち五人は娘だった。姉ゲルトルートは1135年ごろにローマ王コンラート3世の妃となり、弟にゲープハルト3世、妹にアーデルハイト、リウトガルト、マティルデがいる。

シチリア王ルッジェーロ2世に対抗するため、皇帝ヨハネス2世コムネノスは、ドイツのローマ王コンラート3世のもとへ使節を送った。同盟のしるしに、コンラートの縁者の姫を息子マヌエルの妃にしたいという申し出だった。コンラートは、ビザンツとの同盟にはあまり関心を示さなかったが、皇后ゲルトルートの妹ベルタを推した。婚約が整い、ベルタはヴュルツブルク大司教に伴われて、コンスタンティノープルへ出発した。到着は1142年とされるが、ヨハネス2世の死後だったともいう。1142年の末に、マヌエルの二人の兄が相次いで死に、ヨハネスは自分の跡継ぎに四男のマヌエルを選んだ。1143年にヨハネス2世が狩りの事故で亡くなって、マヌエルが皇帝になった。マヌエルは結婚の話を結び直し、最初は公領プーリアとカラブリアだけだった持参金の増額を求めた。コンラートは、ベルタを養女にして身分を高め、皇帝にふさわしい花嫁にしようとした。この交渉は1145年を中心に進められたが、マヌエルはシチリア王との同盟も探っていた。シチリア王が皇帝を侮辱したためにそれが流れ、結婚は急がれた。マヌエルは結婚を3年間引き延ばしたすえ、1146年にベルタと結婚した。

ベルタは、コンスタンティノープルの宮廷で、フランク人でカトリックの出身のため、聖職者たちから強い警戒を受けたという。この間に、ビザンツの作法とギリシャ語を学んだとみられる。皇后エイレーネーと呼ばれた彼女は、テッサロニキ大司教に、その穏やかさをたたえられた。歴史家ニケタス・コニアテスは、彼女が顔に化粧をしなかったと記した。二人の間には娘が2人生まれ、長女マリアは、モンフェッラート侯グリエルモ5世の息子ラニエーリの妻となった。ドイツ出身のビザンツ皇后は、彼女ただ一人である。

ベルタは1159年8月29日に亡くなった。死んだ年を1159年から1161年のあいだとする史料もある。悲しみに沈んだマヌエル1世は、「ライオンのように泣きわめいた」という。マヌエルは2年後の1161年に、後添えとしてアンティオキア公女マリーを迎えた。

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