HISTORICAL PERSON · 1161年没

海陵王

金の第4代皇帝。1149年に従兄の熙宗を殺害して即位し、漢文化を奨励し、国都を燕京へ遷した。宗室の粛清など暴政を重ね、60万と号する大軍で南宋へ遠征したが、自身も部下に殺害された。

生涯
1161年没
死亡地
—
出生地
—
出典
世界地図
位置情報未登録

伝記

海陵王は、金の第4代皇帝である。女真名は迪古乃(ディグナイ)、漢名は亮といい、金の太祖阿骨打の庶長子である遼王斡本(宗幹)の次男にあたる。従弟にあたる第3代皇帝熙宗を殺して帝位を奪ったが、自身も部下に殺された。第5代の世宗が即位したのち、廃位されて海陵郡王に落とされたことから、海陵王と呼ばれる。宗室の子であったことから、天眷3年(1140年)に奉国上将軍となり、最前線で南宋と戦う叔父の梁王斡啜(完顔宗弼)の軍に派遣された。皇統4年(1144年)に中京留守となって前線を離れ、その後は尚書左丞や右丞相など、宰相格の重職を歴任した。皇統9年(1149年)、従兄の熙宗が奢侈や粛清などの暴政を繰り返して人望を失っているのを見て、自派の重臣らと謀って熙宗を殺し、自ら皇帝に即位した。即位後、腹心に、金の君主となること、宋を討ってその皇帝を自分の足もとにひざまずかせること、天下一の美女を娶ることという3つの夢を打ち明けたという。

海陵王は、漢文化に親しんで優れた教養を持ち、即位後はその奨励を行った。その一方で、疑い深く残忍な性格だった。天徳4年(1152年)には、皇帝の独裁権を強化するため、大叔父の太宗の子孫70余人や、族父の秦王粘没喝(宗翰)の子孫50余人など、金の宗室の諸王や、目障りな元勲の子孫たちを次々にまとめて粛清した。身内を信じられない彼は漢人の官僚を盛んに取り立て、北選と南選に分かれていた科挙も一本化した。中書省と門下省を廃して、尚書省だけを皇帝に直属させた。貞元元年(1153年)3月には、都を上京会寧府から燕京に移し、「中都大興府」と称した。財政を顧みず、中都の造成に力を注いだ。1142年に成立した皇統の和議で、金の領域が南に広がることが確定し、北に偏りすぎた会寧が不便になったことが、最大の理由と考えられている。正隆元年(1156年)には大規模な官制改革(正隆官制)も行い、部族封建制から中国的な君主独裁制と官僚制への移行をはかった。一方で、奢侈に走って臣民に重税を強い、暴政の度合いを深め、多くの者に憎まれ始めた。

正隆6年(1161年)6月、海陵王は将来の禍を避けるため、遼の天祚帝の末裔の耶律氏や、北宋の欽宗の末裔の趙氏ら、130余人の若者を殺し、耶律氏と趙氏の若い女性を後宮に入れた。8月には、より豊かな文化と物資を得ようと南宋討伐を企て、「天の使いが夢枕に立ち、宋を征討する命を下した」と宣伝して、開封を修復した。海から南宋を攻めるための軍船を造り、猛安と謀克に属する20歳から50歳までの男子に動員令を出した。これに諫言した嫡母の皇太后徒単氏を、彼は自分の廃立を企んでいると疑って殺し、遺体を焼いて遺灰を近くの河に捨てた。9月、周囲の反対を押し切り、60万と号する大軍を自ら率いて南宋へ遠征した。10月に揚州を陥落させたが、和州で南宋の名将虞允文の頑強な抵抗にあい(采石磯の戦い)、長江を渡れずに苦戦した。留守中の本国では、反対派が従弟の葛王烏禄(世宗)を擁立し、進退窮まった海陵王は、陣中の揚州の亀山寺で、契丹貴族の完顔元宜の軍に殺された。享年40であった。

死後、世宗によって海陵郡王に落とされ、さらに王族の籍を外されて庶人に落とされた。彼は、天下一の美女を娶ると豪語したとおり、臣下や宗族の妻を奪うなどして多くの女性を後宮に集めたとされるが、帝位を廃されたため、悪行が誇張して書かれている可能性にも留意が必要である。こうした後宮の生活は、後世の文学の題材となり、明末の口語小説集『醒世恒言』の一編に取り上げられている。

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