伝記
エルンスト・ヴァルトフリート・ヨーゼフ・ヴェンツェル・マッハは、1838年2月18日に生まれ、1916年2月19日に没した、オーストリアの物理学者、科学史家、哲学者である。日本ではマッハ数の由来として知られる。生まれたのは、当時のオーストリア帝国モラヴィア州ヒルリッツ(現在のブルノの一部)で、ウィーン大学で学んだ。1864年にグラーツ大学の教授(数学、物理学)、1867年にプラハ大学の教授(実験物理学)となり、1895年には、新設された「帰納的科学の歴史と理論」の講座を担当するため、ウィーン大学の教授として招かれた。1901年にオーストリア貴族院議員に選ばれたのを機に、大学を退職した。1916年2月19日、ミュンヘン郊外のハールで死去した。
超音速気流の研究でも有名で、1877年に超音速に関する論文を発表した。静止した流体の中を動く物体が音速を超えると、空気に劇的な変化が起きて衝撃波が生じることを、実験で示した(1887年)。この実験には、当時の最新技術だった写真撮影が用いられた。この業績にちなみ、圧縮流体中の物体の速度を音速との比で表した値は、彼の名を冠して「マッハ数」と呼ばれる。
科学史の分野では、『力学の発達』(1883年)、『熱学の諸原理』(1896年)、『物理光学の諸原理』(1921年)が科学史三部作と呼ばれる。『力学の発達』では、当時の物理学界を支配していた力学的自然観を批判し、ニュートンによる絶対時間や絶対空間などの基本概念には、形而上学的な要素が入り込んでいると批判した。人間が感覚したこともないものを記述にあらかじめ持ち込んでいるとして、これを否定し、「力」という概念の問題点も指摘した。そして力学的物理学ではなく、「現象的物理学」を構築すべきだとした。この考え方はアインシュタインに大きな影響を与え、特殊相対性理論の構築への道を開いた。また、「物体の慣性力は、全宇宙に存在する他の物質との相互作用によって生じる」とするマッハの原理は、一般相対性理論の構築に貢献した。ただしマッハ自身は、相対論に対しては生涯否定的な立場をとった。
認識論の分野では、『感覚の分析』(1886年)と『認識と誤謬』(1905年)が代表的著作で、その核心部は要素一元論と呼ばれる。マッハは、近代哲学と近代科学の主客二元論や物心二元論の問題を指摘し、直接的経験に立ち戻って知識を構築しなおすべきだとした。世界はもともと物的でも心的でもない、色彩、音、感触といった感覚的要素から成り立ち、「物体」や「自我」は、それらの要素が安定した関係で現れることの複合を呼んだものにすぎないと指摘した。科学の目標は、感覚要素の関数的関係を、思考経済の原理に沿って簡潔に記述することだと主張した。感覚に直接現れないことを先験的に認めて命題に織り込むことは認めず、実証主義の中でも極端な立場をとったため、原子論的世界観に立つボルツマンやプランクらと論争を繰り広げた。
心理学や生理学にも研究を広げ、生理学では、ブロイアーと独立にマッハ・ブロイアー説を提唱し、知覚心理学では、マッハの帯と呼ばれる錯視効果を発見して、のちのゲシュタルト心理学にも影響を与えた。形而上学を超えようとする発想や統一科学の構想は、若手の哲学者や科学者に多大な影響を与え、ウィーン学団の結成のきっかけとなった。一方で、彼の学説は共産主義者らの一部に影響し、レーニンは『唯物論と経験批判論』で、感覚の複合としての物というマッハの学説は、主観的観念論であり、バークリー主義の焼き直しだと厳しく批判した。
同じ年に亡くなった人物
- ルベン・ダリオ (1916年没)
- オスカル・バックルンド (1916年没)
- パトリック・ピアース (1916年没)
- カール・クリントヴォルト (1916年没)
- フランツ・マルク (1916年没)
同じ地域に関係する人物
- アンネリーゼ・ミシェル (1976年没)
- ハンス・ヴェルナー・リヒター (1993年没)
- Wilhelm Kaidel (1978年没)
- カール・ルートヴィヒ・コッホ (1857年没)
- ギーゼラ・フォン・エスターライヒ (1932年没)