伝記
ヨハン・バプティスト・ヨーゼフ・マクシミリアン・レーガーは、1873年3月19日に生まれたドイツの作曲家であり、オルガン奏者、ピアニスト、指揮者、音楽教師である。オルガン曲、歌曲、合唱曲、ピアノ曲、室内楽曲の分野で多くの作品を残し、後期ロマン派の作曲家として位置づけられている。ヴァイデン・イン・デア・オーバープファルツに育ち、早くから音楽教育を受けて、1886年にはヴァイデンにある教会のオルガン奏者となった。ミュンヘンとヴィースバーデンでフーゴー・リーマンに音楽理論を学んだ後、徴兵されて従軍したが、このころから過度の喫煙や飲酒をたしなむようになり、1898年に除隊して実家に戻ったときには、心身ともに虚脱状態に陥っていた。その後、創作力は目に見えて上向きになり、1901年には家族に対して、地元よりも音楽的な成果が期待できるとして、ミュンヘン行きを納得させられるようになっていた。
1902年、自身はカトリック信徒であったにもかかわらず、離婚歴のあるプロテスタント信徒の女性エルザ・フォン・ベルケンと結婚し、結果的にカトリック教会から破門に処せられた。ミュンヘン時代のレーガーは、作曲家としても、演奏会ピアニストとしても、きわめて積極的に活動した。1905年にはミュンヘン王立音楽院の打診を受けて、ヨーゼフ・ラインベルガーの後任の作曲科教授に就任したが、わずか1年後には、保守的な同校と意見の食い違いを起こすようになった。1907年に演奏活動でカールスルーエに滞在中に、ライプツィヒ音楽院の教授に選任され、1908年には教授職を退いたが、1911年から1914年の始めまでマイニンゲン宮廷楽団の宮廷楽長を務めた。宮廷楽団が解散されるとイェーナに転居し、その後も精力的な作曲と演奏の活動を続けた。ライプツィヒ時代の門人に、ジョージ・セル、ヨーゼフ・ハースらがいる。
彼は豪快な人となりで、数々の逸話を残した。一例として、自作をこき下ろした新聞評論の執筆者に、「いま、我が家の一番狭い部屋におります。貴君の評論が目の前にあります。もうじき背後に回るでしょう」と書き送ったという話が伝えられている。約2メートルの身長と100キロを超える体重を備えていた。オルガン曲によって名声を得たが、作品はオペラと交響曲を除くほぼ全てのジャンルを網羅し、フーガや変奏曲の形式で作曲されたものが多い。オルガン曲《B-A-C-Hの主題による幻想曲とフーガ》作品46は、バッハの動機に基づく作品としても名高く、管弦楽のための《モーツァルトの主題による変奏曲とフーガ》作品132も比較的知られている。自作をベートーヴェンやブラームスの伝統の一部と見なし、自らを「ドイツ三大B」の正統的な後継者に位置付けることを好んだ。《ヴァイオリンソナタ第4番》作品72は、新しい音楽を理解しようとしない保守的な聴衆や評論家を嘲るような鋭い調子を帯びていた。
1920年代までは、ドイツ語圏を中心に、むしろ影響力のある作曲家であった。新ウィーン楽派は彼の作品を研究し、ヒンデミットとプロコフィエフも心酔した。最晩年は、明晰さと繊細さを好むようになり、「自由なイェナ様式」と呼ばれる新しい表現様式に向かった。1916年5月11日、心筋梗塞のために43歳で急死した。極度の肥満や暴飲暴食、ニコチン中毒、過労も、死因に関わったとされている。カールスルーエにはマックス・レーガー研究所が設立され、徐々に復活の機運が見られる。
同じ年に亡くなった人物
- ロジャー・ケースメント (1916年没)
- ガストン・マスペロ (1916年没)
- 夏目漱石 (1916年没)
- ジョルジュ・ラコンブ (1916年没)
- 上村彦之丞 (1916年没)
同じ地域に関係する人物
- ゴットフリート・ハーマン (1848年没)
- シルヴィウス・レオポルト・ヴァイス (1750年没)
- テオドール・ヴォルフ (1924年没)
- アウグスト (ザクセン選帝侯) (1586年没)
- フリードリヒ・パウルス (1957年没)