伝記
パーシヴァル・ローウェルは、1855年3月13日にボストンで、オーグスタス・ローレンス・ローウェルとキャサリン夫妻の長男として生まれたアメリカ合衆国の天文学者であり、アジア研究者である。ローウェル家は、「ボストン・バラモン」と俗称された上流階級に属する名門一族の一つで、貿易や工業で莫大な富を築いた。弟のアボット・ローレンス・ローウェルは、のちにハーバード大学の学長を24年間務め、妹のエイミー・ローウェルは詩人になった。ノーブル・アンド・グリーノー・スクールを1872年に卒業し、ハーバード大学で物理や数学を学んで、1876年に数学で優秀な成績を収めて卒業した。卒業式では、星雲説について、当時としてはきわめて先進的な演説を行った。卒業後は6年間、綿工場を経営した。
1880年代には、極東を広く旅した。1883年8月には、朝鮮の特別外交使節団がアメリカを訪れる際に、外国人参賛官として迎え入れられ、朝鮮に戻った後は、高宗の招きで、1883年12月から翌年3月まで朝鮮に滞在した。1884年には、現存する最古の朝鮮国王の写真である高宗の写真を撮影した。また、ボストンで『チョソン』を出版した。日本にも1889年から1893年にかけて5回訪れ、通算約3年間滞在した。来日を決意させたのは、大森貝塚を発見したエドワード・モースの日本についての講演だったという。小泉八雲やフェノロサ、チェンバレンと交流し、神道の研究など、日本に関する著書も多い。旅の途中で訪れた穴水町には、顕彰碑が置かれている。日本語を話せなかった彼の日本人観は、「没個性」といったもので、偏見に満ちたものでもあったが、西洋の読者には広く受け入れられた。
1893年にアメリカに戻ると、カミーユ・フラマリオンの『火星』を読んで、火星と天文学を生涯の仕事にしようと決意した。とくに、ミラノの天文台長スキャパレリが描いた火星の「運河」に関心を持ち、1893年から翌年の冬にかけて、私財を投じて、自分の名を冠した天文台を建設した。場所には、天体観測に最適な、アリゾナ準州のフラッグスタッフを選んだ。この地は標高が高く、曇りの夜が少なく、都市の光から遠い。観測に最適な像の質のため、遠隔の高地に意図的に天文台を置いたのは、これが初めてのことだった。そこで彼は、小さな望遠鏡の方が惑星の細部を見るのに適していると考えて、それを好んだ。1895年の『火星』など、火星に関する著書も多い。そこには、黒い小さな円同士を接続する幾何学的な運河の観測結果が掲載され、運河の一部は二重線で描かれていた。彼は火星人の存在を唱え、300近い図形と運河を識別したが、火星探査機の観測により、ほぼすべてが否定されている。
一方で、彼の火星人の研究は、ウェルズの『宇宙戦争』など、エンターテインメントの分野に影響を与えた。カール・セーガンは彼を「最悪の図面屋」と酷評したが、子供たちに天文学を志すきっかけを与えたことは評価した。1904年にジュール・ジャンサン賞を受賞した。最大の業績は、最晩年の1916年に惑星Xの存在を計算により予想したことで、1930年に、その予想に従って観測を続けていたクライド・トンボーにより、冥王星が発見された。冥王星の名には、ローウェルのイニシャルの意味もこめられている。1908年にコンスタンス・キースと結婚した。第一次世界大戦は、熱心な平和主義者だった彼を深く悲しませ、1916年11月12日、卒中のため61歳で死去し、天文台に近いマーズ・ヒルに埋葬された。
同じ年に亡くなった人物
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