伝記
崇徳天皇は、1119年に生まれた日本の第75代天皇である。諱は顕仁といい、鳥羽天皇の第一皇子で、母は中宮の藤原璋子(待賢門院)である。1123年に父の譲位を受けて、数え5歳で即位した。1129年に摂政藤原忠通の長女の聖子が入内し、同じ年に白河法皇が亡くなって、鳥羽上皇が院政を始めた。翌1130年に聖子は中宮となり、夫婦仲は良かったが子はできなかった。1140年に女房の兵衛佐局が第一皇子の重仁親王を産むと、聖子と忠通は不快感を抱いたという。
鳥羽上皇は藤原得子(美福門院)を寵愛し、1141年12月、崇徳天皇に譲位を迫って、得子の子の躰仁親王を即位させた。これが近衛天皇である。躰仁親王は聖子の養子だったため本来は皇太子のはずだったが、譲位の宣命には「皇太弟」と書かれていた。天皇が弟では将来の院政ができず、崇徳上皇にとって大きな遺恨となった。上皇は新院と呼ばれた。上皇になってからは和歌に没頭し、『久安百首』を作らせ、『詞花和歌集』を撰集した。法皇は重仁親王を美福門院の養子にしており、近衛天皇に子がないまま亡くなれば、重仁親王が即位できる道もあった。ところが1155年7月、病弱だった近衛天皇が17歳で亡くなると、重仁親王が最有力だったにもかかわらず、守仁親王(のちの二条天皇)が即位するまでの中継ぎとして、その父の雅仁親王が即位した。これが後白河天皇で、崇徳院政の望みは断たれた。
1156年7月2日に鳥羽法皇が亡くなった。崇徳院は臨終の直前に見舞いに訪れたが、対面はできなかった。7月5日には「上皇と左大臣の藤原頼長が心を合わせて軍を出そうとしている」という噂が流れ、7月9日の夜、崇徳院は少数の側近とともに鳥羽田中殿を脱出して、洛東白河の統子内親王の御所に入った。翌日には頼長が入り、藤原教長や源為義、平忠正らの武士が集まったが、兵力は弱かった。後白河天皇方は11日未明に白河北殿へ夜襲をかけ、御所は炎上し、崇徳院は逃れて行方をくらました。これが保元の乱である。院は東山の如意山に逃れたのち、投降を決めて剃髪し、13日に仁和寺に出頭して、同母弟の覚性法親王に取りなしを頼んだが断られた。
7月23日、崇徳院は武士数十人に囲まれて鳥羽から船で讃岐国へ下った。天皇または上皇の配流は、淳仁天皇の淡路への配流以来、およそ400年ぶりのことだった。同行したのは寵妃の兵衛佐局と、わずかな女房だけだった。松山の津に着くと、急な配流で御所が用意できず、綾高遠の屋敷を仮の御所とした。2年後には府中の鼓岡の御所に移り、粗末な作りだったため木丸殿と呼ばれた。『保元物語』によると、院は仏教に深く傾倒し、五部大乗経を写して京の寺に収めてほしいと朝廷に差し出したが、後白河院が呪詛を疑って送り返したという。院は京の地を二度と踏むことなく、1164年8月26日、46歳で崩御した。死因ははっきりしていない。
死後しばらくは、崇徳院は罪人として扱われ、朝廷による葬礼の措置はなかった。ところが1177年に延暦寺の強訴、安元の大火、鹿ケ谷の陰謀が相次ぐと、貴族の日記に崇徳院の怨霊を恐れる記事が頻繁に現れるようになる。後白河院は怨霊を鎮めるため保元の宣命を破棄し、「讃岐院」の院号を「崇徳院」に改めた。1184年4月には、保元の乱の古戦場の春日河原に崇徳院廟が設けられた。その後、怨霊としての崇徳院の姿は定着し、菅原道真、平将門と並ぶ日本三大怨霊の1人として知られるようになった。
同じ年に亡くなった人物
- アドルフ2世 (ホルシュタイン伯) (1164年没)
- シェーナウのエリザベト (1164年没)
- スヴャトスラフ・オリゴヴィチ (チェルニゴフ公) (1164年没)
- 対立教皇ウィクトル4世 (後代) (1164年)
- 藤原忠通 (1164年没)
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