伝記
アドルフ2世は、1128年ごろに生まれ、1164年7月6日に没した、シャウエンブルク伯、およびホルシュタイン伯である。1130年11月13日に父アドルフ1世が没すると、母ヒルデヴァの摂政のもとで爵位を継いだ。
1137年、主君である皇帝ロタール3世が没したのち、ドイツ王となったコンラート3世は、アルブレヒト熊公にザクセン公領を与えた。先代のザクセン公ハインリヒ傲岸公を出したヴェルフ家が強大になることを、コンラートが恐れたからである。アドルフはヴェルフ家の支持者の一人で、アルブレヒトのザクセン公就任を頑として認めなかったため、一時はホルシュタイン伯位を取り上げられた。1142年にコンラート3世と傲岸公の息子ハインリヒ獅子公が和解すると、アドルフはホルシュタイン伯に返り咲いた。
1143年、ヴェンド十字軍に参加したアドルフは、東方で獲得したスラブ人の土地を獅子公と分け合った。アドルフはヴァグリア地方を得て、その中心の城ゼーゲベルクは、ロタール3世が築いたものだったが、アドルフの主要な要塞となった。アドルフは多くの時期をゼーゲベルクで過ごし、宣教師ヴィケリヌスらの伝道活動のもとで、この地方のキリスト教化を進めた。獅子公はラッツェブルクを都とするポラビア地方を得た。また、ロタール3世の勧めで、スラブ人の土地への植民にも努め、植民者はホルシュタインの出身者だけでなく、ヴェストファーレン、フランドル、ホラント、ユトレヒト、フリジアなど多くの地域から集まったという。
1143年または1144年、アドルフはバルト海に面した最初のドイツの港町リューベックを築き、そこに木と土の砦も築いた。1157年にリューベックは焼け落ち、獅子公が立て直した。獅子公がリューネブルクの繁栄を妨げるとして焼かせたともいう。1159年までには、リューベックは獅子公の手に移っていた。デンマークの王位をめぐる争いにも関わり、アドルフは王位を主張するスヴェン3世に味方して、クヌーズ5世と対した。クヌーズ5世は、ディトマルシェンのエテレルらの支援を得てホルシュタインを攻め、オルデンブルクの街を焼き払い、北ドイツの海岸地帯に大きな被害が出たという。1159年には皇帝フリードリヒ1世のイタリア遠征に随行し、1162年にはデンマーク王ヴァルデマーに忠誠を誓った。1164年には、オボトリート族の討伐に向かう獅子公を助け、7月6日に、ポメルンのデミン近くで行われたヴェルヒェンの戦いで戦死した。ミンデンに葬られ、ホルシュタイン伯位は息子のアドルフ3世が継ぎ、未亡人のメヒティルトが摂政をつとめた。
同じ年に亡くなった人物
- オットカール3世 (シュタイアーマルク辺境伯) (1164年没)
- 崇徳天皇 (1164年没)
- 対立教皇ウィクトル4世 (後代) (1164年)
- 藤原忠通 (1164年没)
- シェーナウのエリザベト (1164年没)
同じ地域に関係する人物
- アドルフ・フリードリヒ1世 (メクレンブルク公) (1658年没)
- アルブレヒト2世 (メクレンブルク=シュヴェリーン公) (1379年没)
- パウル・フリードリヒ・ツー・メクレンブルク (1923年没)
- ヘレーネ・ツー・メクレンブルク (1857-1936) (1936年没)
- フリードリヒ・フランツ2世 (メクレンブルク=シュヴェリーン大公) (1883年没)