HISTORICAL PERSON · 紀元前184年没

前少帝 (前漢)

前漢の第3代皇帝。恵帝の子で、呂太后の支持を得て即位した。張皇后の子と公表するため生母は殺害されたといわれ、成長して事実を知り呂后を恨むと、幽閉・廃位され間もなく殺害された。

生涯
紀元前184年没
死亡地
中華人民共和国(甘粛省 / 中国)
出生地
中国
出典
世界地図
中華人民共和国(甘粛省)

伝記

前少帝は、前漢の第3代皇帝である。歴代皇帝に数えない場合もあり、『太平御覧』などでは前少帝と書かれる。一般には諱を恭(劉恭)とするが、『史記』や『漢書』およびその注にその記録はなく、近代日本で「劉某」が誤写されたのが初出と考えられている。生年は記録されておらず、紀元前193年生まれとする説明もある。没したのは紀元前184年である。

父は恵帝(劉盈)で、母は後宮の女性、すなわち身分の低い妃か女官であったとされる。この点には議論もあり、呂太后の死後に弟の劉弘を処刑した廷臣たちは、恵帝には実の子がなかったと主張したとも伝えられる。恵帝の皇后の張皇后(張嫣)は呂太后の外孫、つまり魯元公主の娘にあたるが、子がなかった。そこで呂太后の発意で少帝が張皇后の子として迎えられ、皇太子に立てられた。これは、子のない張皇后が恵帝の死後に皇太后となれるようにするためだったといわれる。この際、張皇后の子であると公表するため、生母である女官は殺害されたという。

紀元前188年に恵帝が死去すると、皇太子であった少帝が即位した。しかし政治の実権は祖母の呂太后が握り続け、公の場で政務を取り仕切った。少帝は呂太后の傀儡にすぎず、実際の権力は持たなかったとみられている。死後に諡も廟号も贈られず、ただ「少帝」(若い皇帝)と呼ばれるのみで、後に即位した弟の劉弘も同じく少帝と呼ばれる。両者を区別するため、劉恭を前少帝、劉弘を後少帝と呼ぶ。

紀元前184年かそれ以前のこと、成長した少帝は、自分が張皇后の実子ではなく、生母が殺されていたことを知った。そして、自分が大人になったら母を殺した者に報いを受けさせる、と口にしてしまった。これを聞いた呂太后は後難を恐れ、少帝を宮中に密かに幽閉し、重病で誰にも会えないと公表した。しばらくして、病は続いており、さらに精神を病んで政務を執れないと群臣に告げ、廃位して別の者に替えることを提案した。群臣は呂太后の意向に従って少帝を廃位し、その後まもなく少帝は殺害された。

紀元前184年6月15日、弟の劉義が後を継ぎ、名を劉弘と改めた。『史記』呂太后本紀や『漢書』高后紀にこの経緯が記される。少帝の生涯については、記録されている主要な出来事がわずかしかなく、人柄もほとんど分かっていない。後世には、2009年の中国ドラマ『劉邦の大風歌』や2012年の『美人心計』などの作品にも登場している。

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