伝記
プトレマイオス5世エピファネスは、古代エジプトのプトレマイオス朝のファラオである。紀元前210年10月9日ごろに生まれ、紀元前204年に即位し、紀元前180年9月に没した。プトレマイオス4世とアルシノエ3世の子で、名のエピファネスは「顕現神王」を意味し、自称したものと推測されている。その治世には周辺国の侵攻で多くの領地を失い、国内でも先住エジプト人の反乱が相次いだ。プトレマイオス朝の衰退は、この王の時代から始まったとされる。
父プトレマイオス4世は兄妹婚の相手アルシノエ3世との間に、唯一の子として彼をもうけた。誕生後まもなく、父の共同統治者として王位に就いたと伝わる。紀元前204年の夏、五歳のときに両親が不審な状況で世を去った。宮殿の火災で父が死んだとされるが、母も同じ火災で死んだのか、後に殺されたのかは分からない。廷臣のソシビオスとアガトクレスが幼い王を擁立して後見人となり、権勢を振るったが、やがて疑いの目を向けられた。紀元前202年、ペルシオンの知事トレポレモスが反乱を起こし、アガトクレスは虐殺されて、プトレマイオス5世が正式に即位した。だがその後も後見人たちは力量を欠いたとされ、王国は動きを取れなくなった。
この混乱に乗じて、シリアのアンティオコス3世はマケドニアのピリッポス5世とエジプト外の領土の分割を協議し、両国はアナトリアやシリアにあるプトレマイオス朝の支配地を攻撃した。第5次シリア戦争(紀元前202年から紀元前195年)である。紀元前200年の会戦でエジプト軍は大敗し、東方貿易の中継地である南シリアを失って、王朝の収入は大きく落ちた。重税を課された農民の不満は紀元前188年から紀元前184年にかけての反乱となり、エジプトのほぼ全域に及んだ。上エジプトのテーベでは紀元前208年に独立政権が樹立され、紀元前187年から紀元前186年にヒッパルスが鎮圧するまで、王朝の支配を離れていた。エジプト軍は南部を着実に取り戻し、紀元前186年には上エジプト全域が再び王朝の支配下に入ったとも伝えられる。
王は住民の支持を得ようと、エジプトの伝統に従って紀元前196年3月26日にメンフィスで即位式を挙げた。プトレマイオス朝のファラオとしては初めてのことで、あわせて税の恩赦も布告した。ロゼッタ・ストーンには、ギリシア語、デモティック、ヒエログリフの三種の文字で、この年にメンフィスで開かれた神官会議が記録されている。
紀元前193年にシリアとの和平が成立すると、アンティオコス3世の娘クレオパトラ1世と結婚した。婚資として南シリアの支配権が返還されたが名目にすぎず、実際にはアンティオコス3世が所有者であり続け、エジプトはシリアの内政干渉を受けるようになった。王は東地中海に進出するローマに支援を求めた。エジプトを破ったシリアとマケドニアはやがてローマとの戦争に敗れ、東地中海でのローマの影響力が増していった。この結婚はローマの反発を招いたとする見方もあり、ローマは小アジアの旧領を、エジプトへ返さずペルガモンとロドスに分け与えたとされる。二人の間にはプトレマイオス6世ら二人の息子と一人の娘が生まれた。晩年の王はシリアとの再戦を画策していたが、紀元前180年に急死し、戦費を心配した廷臣による毒殺だったともいわれる。死後はクレオパトラ1世が摂政となり、シリアとの友好関係の構築に努めた。
同じ年に亡くなった人物
- 少帝弘 (紀元前180年没)
- Satadhanvan (紀元前180)
- スプリウス・ポストゥミウス・アルビヌス (紀元前186年の執政官) (紀元前180年没)
- ガイウス・セルウィリウス・ゲミヌス (紀元前180年没)
- ブリハドラタ・マウリヤ (紀元前180年代没)
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