HISTORICAL PERSON · 1174年没

ヌールッディーン

十字軍やファーティマ朝と戦ってシリアを統一し、部下サラディンをエジプトに派遣してその台頭を導いたザンギー朝の君主。

生涯
1174年没
死亡地
シリア共和国(ダマスカス県 / ダマスカス)
出生地
イラク共和国(モースル)
出典
世界地図
シリア共和国(ダマスカス県)

伝記

ヌールッディーン・マフムードは、シリアを支配したザンギー朝の第2代君主(在位1146年から1174年)である。1118年ごろに生まれ、父はアタベクのイマードゥッディーン・ザンギーである。名は「信仰の光」を意味する。十字軍国家やエジプトのファーティマ朝、ダマスカスのブーリー朝と戦って領土を広げ、イスラム勢力の統一をはかった。

1146年、父ザンギーが召使に暗殺されると、その所領は兄サイフッディーンと分けられ、ヌールッディーンは西半分のシリアを得て、アレッポの太守となった。この相続は円満には進まなかったが、兄弟のあいだで妥協が成った。彼はイスラム勢力の結集をめざし、アルトゥク朝系の政権やブーリー朝と同盟を結んで、アンティオキア公国や、領地の奪回をねらうエデッサ伯らの十字軍と戦った。ブーリー朝との同盟のときには、同朝のウヌルの娘アーミナが彼に嫁いだ。1148年に第2回十字軍がやってきたが、彼らは、エルサレム王国と親しかったダマスカスを攻めたため、ヌールッディーンとダマスカスを近づけてしまった。ダマスカスの首長ウヌルは、ヌールッディーンに助けを求めつつも彼の野心を警戒し、十字軍が内部で争うのに乗じて包囲を解かせた。

第2回十字軍が成果なく撤退すると、アンティオキア公国の領地の大部分を奪い、イナブの戦いでアンティオキア公レーモンを捕らえて処刑した。その後エデッサ伯も捕らえられ、彼の支配は安定した。アルメニア人がジョスラン2世を復帰させようとして起こした反乱も鎮め、エデッサ伯領の歴史に終止符を打った。1154年には、ダマスカスの住民の協力を得て、包囲せずにダマスカスを手に入れ、ここを首都として、シリアの大部分をまとめた。以後は十字軍の要塞を次々と奪い、1164年ごろまで、十字軍と戦うかたわら、ビザンツ皇帝マヌエル1世と同盟して、ルーム・セルジューク朝のスルタンと争った。1173年にクルチ・アルスラーン2世がマラティヤへ攻め入ると、ヌールッディーンはマラティヤの領主ズンヌーンを助けて軍を送り、タウロス山脈でルーム・セルジューク軍の退路を断って包囲した。クルチ・アルスラーンは、講和を結び、捕虜となった兵はタウロス山脈以西へ退いた。ヌールッディーンは没するまで、マラティヤに軍を置き続けた。

ファーティマ朝がエルサレム王国の攻撃を受けて支援を求めてくると、クルド人の将軍シールクーフ(甥はサラディン)をエジプトに送った。1169年にサラディンがエジプトの宰相となり、エジプトは完全に彼の支配下に入った。しかしサラディンは事実上自立し、1171年と1173年のヌールッディーンによる十字軍領への攻撃にも加わらず、エルサレム王国が両勢力の緩衝地帯として残ることを望んだ。ヌールッディーンは1174年、エジプト遠征の準備をしていたが、5月15日に熱病(扁桃の化膿とも)で没した。息子があとを継いだが、1185年にサラディンのアイユーブ朝に併合された。

ヌールッディーンは容姿が整った勇敢な戦士で、戦場では弓と矢筒を二組身につけて前線に立ったと伝えられる。公正で信心深く、贅沢を好まない人とも評された。アレッポやダマスカスのヌーリーヤ学院は彼が創設したもので、スンナ派の教学の振興に大きく貢献した。モースルの光のモスクも、彼の命で建てられたと伝えられる。エルサレムを取り戻した際にアクサー・モスクに置くための木彫りの説教壇も作らせた。サラディンの活躍の土台は、彼が築いたといわれる。

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