伝記
ロザモンド・クリフォードは、中世イングランドの貴族の娘で、イングランド王ヘンリー2世の愛人として知られる女性である。「麗しのロザモンド」と呼ばれ、ほかに「世界の薔薇」とも称された。名は、ラテン語で「世界の薔薇」を意味する語に由来するとみられる。生まれた年は定かでなく、1140年かそれより前ともいわれ、没したのは1176年ごろである。実情には不明な点が多く、様々な伝承が入り乱れている。
父はウェールズ辺境の領主ウォルター・ド・クリフォード、母はマーガレット・ド・トゥーニである。3人の兄弟と、2人の姉妹がいた。まず父のクリフォード城で育てられ、のちに教育を受けるため、ベネディクト会の修道女たちのゴッドストウ修道院に送られた。生年を1140年かそれ以前とする説は、ヘンリー2世の庶子の少なくとも1人の母が彼女だという言い伝えにもとづき、1150年代の初めにはすでに王の愛人になっていたことを示すものである。しかしジェラルド・オブ・ウェールズは、1176年の死の時点で彼女を「少女」と記しており、遅くとも1166年には成人していたことは確かである。
当代きっての美女といわれた。王との関係は、王妃アリエノール・ダキテーヌが末子ジョンを身ごもっていた1166年に始まったとされるが、ヘンリーがこの関係を公に認めたのは、1174年が最初であった。ジョンはボーモン宮殿で生まれたが、ロザモンドがウッドストックに住んでいたからだという説もある。アリエノールの伝記作家は、これを根拠のない作り話と退けている。王が大陸の領地とのあいだを往復するとき、彼女がウッドストックにとどまったのか同行したのかは、記録によって異なる。同行しなかったなら、1166年から1176年までのあいだ、2人が一緒にいられたのは、およそ4分の1にすぎない。王がロザモンドをウッドストック宮殿に引き入れたことに怒って、アリエノールが王と別居したのは事実である。
王との関係が終わると、ロザモンドはゴッドストウ修道院に退き、1176年ごろ、40歳にならないうちにそこで亡くなり、葬られた。命日の7月6日は、13年後にヘンリー2世が亡くなった日と同じで、ヘレフォード大聖堂で記念された。王とクリフォード家は、墓の世話の費用を修道女たちに払った。墓は土地の人々の人気の巡礼地となったが、1191年にリンカーン司教ヒューがこれに気づき、花や蝋燭で覆われた墓を見て、遺骨を外に移して葬るよう命じた。遺体は修道女たちの参事会堂のそばの墓地に移され、墓は、ヘンリー8世による修道院の解散(1536年から1541年)のときに壊された。修道院の廃墟は今も残り、一般に公開されている。
ロザモンドが、王の庶子であるヨーク大司教ジェフリーと、ソールズベリー伯ウィリアム・ロングスピーの母だったという話もあるが、ジェフリーは王と彼女が出会う前に別の女性から生まれ、ウィリアムはイダ・ド・トゥーニの子であり、根拠はない。伝説では、王は妻の目から愛人を隠すため、ウッドストック宮殿の庭園のなかに、迷路のように作った「ロザモンドの園亭」に彼女を匿った。嫉妬深いアリエノールは、迷路を突破して、毒か短剣で自殺を迫り、ロザモンドは服毒自殺を選んだとされる。しかし、ロザモンドが亡くなった1176年は、アリエノールが反乱を扇動した容疑で王に幽閉されていた時期であり、自殺強要は作り話にすぎない。この伝説は、詩、戯曲、バラード、絵画、オペラなど、1920年ごろまで数多くの作品の題材となった。
同じ年に亡くなった人物
- リチャード・ド・クレア (第2代ペンブルック伯) (1176年)
- 六条天皇 (1176年没)
- イブン・アサーキル (1176年)
- ミハイル1世 (キエフ大公) (1176年没)
- マチュー1世 (ロレーヌ公) (1176年没)
同じ地域に関係する人物
- バロネス・オルツィ (1947年没)
- ウィリアム・モリス (初代ナフィールド子爵) (1963年没)
- Nicholas Ridley (1555年没)
- リチャード・ドール (2005年没)
- ジョーン・オブ・ケント (1385年没)