HISTORICAL PERSON · 1385年没

ジョーン・オブ・ケント

エドワード黒太子の妃で初代プリンセス・オブ・ウェールズ。3度結婚し、幼くして即位した息子リチャード2世の人格形成に大きな影響を与えた。

生涯
1385年没
死亡地
イギリス連邦(オックスフォードシャー / ウォーリングフォード)
出生地
イギリス連邦(ウッドストック宮殿)
出典
世界地図
イギリス連邦(オックスフォードシャー)

伝記

ジョーン・オブ・ケントは、イングランドのエドワード黒太子の妃で、最初のプリンセス・オブ・ウェールズである。「ケントの美女」と呼ばれた。1328年9月29日に生まれ、1385年8月7日に没した。父は初代ケント伯エドマンド・オブ・ウッドストックで、エドワード2世の異母弟にあたる。母はマーガレット・ウェイクで、ジョーンは4人きょうだいの3番目だった。

父エドマンドは、異母兄のエドワード2世を支えたため、王妃イザベラとその愛人ロジャー・モーティマーと対立し、エドワード2世の廃位後、1330年3月19日にウィンチェスターで斬首された。残された母と子は、従兄にあたる新王エドワード3世が面倒を見て、ジョーンは宮廷で育ち、従兄のエドワード、のちの黒太子と親しくなった。1340年、12歳のジョーンは、王の許可を得ないまま、トマス・ホランドと秘密のうちに結婚した。ホランドがフランスへ戦いに出ると、親族は彼女を、初代ソールズベリー伯の子ウィリアム・モンタギューと結婚させた。ジョーンは後年、前の結婚を明かせなかったのは、明かせばホランドが帰国後に反逆罪で死ぬのを恐れたからだと語ったという。1344年からはソールズベリー伯爵夫人として暮らした。やがてホランドが戻って王に結婚を打ち明け、教皇に妻の返還を求めると、怒ったソールズベリー伯は彼女を家に閉じ込めたとされる。1349年に、教皇クレメンス6世が、ソールズベリー伯との結婚の無効と、ホランドとの結婚の有効を認めた。

1352年に弟の第3代ケント伯ジョンが死ぬと、ジョーンはホランドとともにケント伯位を継いだ。2人の間には、トマス、ジョン、ジョーン、モードの4人を含む子が生まれた。1360年にホランドと死別し、翌1361年10月10日に、ウィンザー城で黒太子と結婚した。2人は従兄妹の間柄で、近い血縁にあたったが、国王の求めにより教皇が特免を与えたうえでの結婚だった。1362年に黒太子がアキテーヌ公に叙されると、夫妻はフランスに渡り、首都ボルドーで長く暮らした。2人の間には、エドワードと、のちのリチャード2世の2人の男子が生まれた。長男のエドワードは幼くして亡くなっている。

1376年に黒太子が死去し、1377年に、リチャード2世が幼くして王位に就いた。ジョーンは幼い王を手元に置いて育て上げ、1385年に56歳で亡くなるまで、その人格形成に大きな影響を与えたとされる。ホランドとの間の息子たちはリチャード2世に重用され、1397年には、次男のジョンがエクセター公に、孫のトマス・ホランドがサリー公に叙された。しかし1399年にリチャード2世が廃位され、ヘンリー4世が即位すると、2人は冷遇され、1400年に謀反に失敗して処刑された。

ジョーンには、ガーター勲章にまつわる伝説もある。1347年のカレー包囲戦の勝利後に開かれた舞踏会で、ジョーンが踊っている最中にガーターを落とし、それを拾ったエドワード3世が自分の左足にはめて、ジョーンをかばったのが、勲章誕生のきっかけだという。史実とは認められていないが、騎士道を示す逸話として語り継がれている。

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