伝記
ヘンリー・ブルックス・アダムズは、1838年2月16日に生まれ、1918年3月27日に没したアメリカ合衆国の作家、歴史家、思想家である。曽祖父は第2代大統領ジョン・アダムズ、祖父は第6代大統領ジョン・クィンシー・アダムズ、父は南北戦争当時に駐英公使を務めたチャールズ・フランシス・アダムズ、弟は歴史家で批評家のブルックス・アダムズである。
ボストンで、チャールズ・フランシス・アダムズと、母アビゲイル・ブラウンの間に、5人の子の4番目として生まれた。母方の祖父は、ボストンで最も成功した商人の一人であった。ディクスウェル校で学び、1858年にハーバード大学を卒業した後、ヨーロッパへの大旅行に出て、ベルリン大学で大陸法の講義も聴いた。1860年の激しい大統領選のさなかに帰国し、法律の勉強を試みたが長続きせず、下院議員に再選された父を助けて、ワシントンで私設秘書となった。1861年3月19日、リンカーンが父を駐英公使に任命し、ヘンリーも父に同行してロンドンに行き、ニューヨーク・タイムズ紙の匿名のロンドン通信員を務めた。それから4年間、父は南北戦争中のイギリスの中立を保つことなどに忙殺され、ヘンリーは、アメリカ人はイギリスに対して辛抱すべきだと紙面で主張した。ロンドンでは多くの著名人と親交を結び、若き日のヘンリー・ジェームズを、イギリスの社交界に紹介する手助けもした。この時期に、ミルの著作、とくに『代議制統治論』の影響を受け、民主主義は扇動や無知や腐敗に陥りやすく、選挙された政府を導く、啓蒙されたエリートが必要だと考えるようになった。
1868年に帰国してワシントンに住み、ジャーナリストとして政治腐敗を暴こうとし、17、18世紀の価値に基づく民主主義の理想を掲げた。そのため、金ぴか時代の政治の行き過ぎを批判した、初期の批評家の一人である。1870年にハーバード大学の中世史の教授に任命され、1877年に早期に退職するまでその職にあった。アメリカで最初に、歴史のゼミナールを行った人物とされ、学生にはヘンリー・カボット・ロッジがいた。1875年にはアメリカ芸術科学アカデミーの会員に選ばれた。1872年6月27日に、マリアン・フーパーと結婚し、ヨーロッパで新婚旅行を過ごした。1880年に小説『デモクラシー』、1882年に『ジョン・ランドルフ』を発表した。
1885年に妻マリアンが自殺すると、アダムズは悲嘆のなか世界各地を巡る旅行を行った。1889年から1891年に、全9巻の『トーマス・ジェファーソン及びジェームズ・マディソン治下の合衆国史』を完成させ、これは文体の質、史料への精通、時代と主要人物への深い知識で称賛された。1904年には、研究書『モン・サン・ミッシェルとシャルトル』を出版した。晩年に、青年時代を過ごした19世紀とは何もかもが変わってしまった20世紀初頭を、いかに生き抜いたかを記録した自伝『ヘンリー・アダムズの教育』は、1918年に出版され、ピューリッツァー賞を受賞し、20世紀の最良の英語のノンフィクションに選ばれた。同年、ワシントンで脳卒中のため80歳で死去した。
同じ年に亡くなった人物
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