HISTORICAL PERSON · 1179年没

ヒルデガルト・フォン・ビンゲン

中世ドイツのベネディクト会系女子修道院長で神秘家、作曲家。幻視体験を『道を知れ』に記し、ビンゲンに女子修道院を築いた。薬草学に通じ、典礼劇『諸徳目の秩序』も作曲。史上4人目の女性の教会博士とされる。

生涯
1179年没
死亡地
ドイツ連邦共和国(ラインラント=プファルツ州 / Kloster Rupertsberg)
出生地
ドイツ連邦共和国(ベルマースハイム・フォア・デア・ヘーエ)
出典
世界地図
ドイツ連邦共和国(ラインラント=プファルツ州)

伝記

ヒルデガルト・フォン・ビンゲンは、1098年ごろに生まれ、1179年9月17日に没した中世ドイツのベネディクト会系の女子修道院長である。神秘家であり、作曲家でもあり、史上4人目の女性の教会博士とされる。ドイツ王国のラインラント、マインツ大司教区のベルマースハイムで、地方貴族の父ヒルデベルトと母メヒティルトの10番目の子として生まれた。出生地には両親の出身地ベッケルハイムとする記述もあり、詳細は不明である。

1106年からは、ディジボーデンベルクのベネディクト会系修道院の近くで隠遁生活を送る修道女ユッタ・フォン・シュポンハイムに育てられた。のちに修道士フォルマールも教育に加わった。ユッタは敷地内に女子修道院を設けて院長となり、1136年にユッタが没すると、ヒルデガルトが院長に就いた。1141年、神の啓示を受けたとして、フォルマールと腹心の修道女リヒャルディス・フォン・シュターデの助けを得ながら『道を知れ』の執筆を始め、自らの幻視体験をはじめて公に示した。幻視は「生ける光の影」と呼ばれ、彼女は5歳ごろから体験していたと序文で述べている。それは我を忘れる状態ではなく、周囲の状況が分かる正常な覚醒状態で生じたという。

1147年には、当時宗教界に大きな影響力をもっていたクレルヴォーの聖ベルナールに助言を求めて書簡を送った。同年、教皇エウゲニウス3世がトリーアで開いた教会会議で、マインツ大司教ハインリヒが彼女の幻視を取り上げ、教皇使節が執筆途中の『道を知れ』を持ち帰って披露すると、多くの人に感銘を与えたとされる。聖ベルナールの取りなしもあって教皇から執筆の認可が与えられ、その名は広く知られるようになった。この頃から典礼用の宗教曲の作詞作曲も始め、『諸徳目の秩序』は作者の知られた典礼劇・道徳劇として最古とされる。

名声のもとに修道女が各地から集まって手狭になり、1150年にビンゲン近郊のルペルツベルクへ新しい女子修道院を建てて移った。『道を知れ』は翌年に完成した。1158年から63年にかけては、ドイツ王国各地へ三回の説教旅行を行い、皇帝フリードリヒ1世に謁見し、1163年にはその保護を約す勅令が修道院に出された。1165年にはライン川対岸のアイビンゲンに、庶民のための修道院も建てている。1173年にフォルマールが没した後は、後任のゴットフリートが彼女の『生涯』の執筆を始め、その死後はギベール・ド・ガンブルーが秘書となって追補した。1178年、破門された貴族を修道院に葬ったことでマインツの聖堂参事会員らと対立し、大司教から聖務停止を命じられた。禁令は翌年3月に解かれたが、同年9月17日に世を去った。

彼女は『自然学』と『病因と治療』で三百以上の薬草の効能と用法を示し、入浴や瀉血などの療法のほか、正しい食事や適度な運動、十分な休息、調和のとれた音楽を勧めた。薬草の調理法も多く載せ、薬と料理を厳密に分けない点が特色である。彼女はドイツ薬草学の祖とされ、その書は第二次世界大戦中にオーストリアの軍医によって再発見されたという。三部作の一つ『神の業の書』では、同心円形の宇宙のモデルを描いた。神の世界に厳格な階層秩序があるように人間界にも階層があると認め、貴族と庶民が別の階級で暮らすのは当然と考えた。修道会の中でも特に保守的で、戒律を厳格に守る修道女だったとされる。作曲した聖歌は現在77曲が写本に残り、近年は録音も盛んだ。2012年10月7日、教皇ベネディクト16世が彼女を教会博士とした。ルペルツベルクの修道院は三十年戦争で破壊され、現在は残っていない。

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