伝記
ペトルス・コメストルは、フランスのトロワに1100年ごろ生まれ、1178年10月22日に没したとされる、12世紀の神学者である。フランス語ではピエール・ル・マンジュールといい、「食べる人」の意味の添え名コメストルは、書物や学問をむさぼるように食べた習慣に由来すると俗に言われたが、おそらく単なる家名であった。彼自身が作ったとされる墓碑銘は、この添え名にかけて「この石に覆われた私はペトルス、むさぼる者と呼ばれた。いまは私がむさぼられている」と詠む。
若いころは、トロワの大聖堂付属学校、あるいは町のサン・ルー修道院の学校で学び、のちに参事会員となった。この学校で、ピエール・アベラールと接触があったかもしれない。教皇エウゲニウス3世から、トロワの司教座聖堂首席司祭の称号を受け、1147年から1164年までその地位にあった。1150年ごろには、パリの司教座聖堂付属学校でペトルス・ロンバルドゥスの講義を聴いた。1158年には名高い教師として名が見え、1160年までにはパリに戻って神学の講座を担当していた。1164年ごろには、パリのノートル・ダム司教座聖堂の大書記長となり、1164年から1169年までの5年間、神学の学校を率いた。1169年に学校の職をピエール・ド・ポワティエに譲って教壇を退いたが、大書記長の職は死ぬまで保った。学者としての名声は、教皇アレクサンデル3世が教授免許の授与に手数料をとることを禁じたとき、とくに彼だけを例外とするほどであった。聖クリュソゴノスの枢機卿ピエールは、非常に高い教養をそなえた彼を、枢機卿の候補として教皇に推薦したが、選ばれなかった。
1170年代の初めに、彼はサン・ヴィクトル修道院の律修参事会員となった。この修道院で、主著『ヒストリア・スコラスティカ』を書き上げた。この書物は1169年から1173年にかけて書かれたとされ、サンスの大司教ギヨーム・オ・ブランシュ・マン(のちのランス大司教)に捧げられた。これは聖書全体の要約で、聖なる歴史を物語として語り直し、人類の一般史のなかに織り込んだものである。教会の著作家や世俗の著作家からの注釈を加え、正典の聖書に、外典やユダヤ人の注解者たちの伝承も混ぜている。ペトルスはしばしば、サン・ヴィクトルのアンドレアスの権威に頼って、使った文章を改善した。
この書物は広く行き渡り、何世紀にもわたって、ラテン語で「聖書」の名でも呼ばれた。800点を超える写本が見つかっており、シャルル8世の求めで1483年ごろにも印刷された。最初期の注釈者は、ステファン・ラングトンと、1194年のニゲルである。ドイツでは1248年から翻訳が出回り、オランダ語、ポルトガル語、スペイン語の翻訳もある。フランス語には、1294年にギヤール・デ・ムーランが訳し、これを聖書の翻訳と一緒に出して『歴史聖書』とした。この書物は、のちの時代の中心的な教科書となり、『カンタベリー物語』の種本の一つであったかもしれないともいわれる。
ペトルスは、ほかにも、説教、『秘跡論』、『悔悛論』、福音書、詩編、パウロ書簡などの注解を残した。ペトルス・ロンバルドゥスの『命題集』を要約した『秘跡の命題』もある。中世の文献ではしばしば「歴史の師」と呼ばれ、ロンバルドゥスが「命題の師」と呼ばれたのと並ぶ。サン・ヴィクトル修道院で没し、同修道院に葬られた。
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