伝記
クィントゥス・フルウィウス・フラックスは、紀元前2世紀初頭の共和政ローマの政治家・軍人である。紀元前179年に執政官、紀元前174年に監察官を務め、紀元前172年に没した。ただし没年は紀元前173年とする記述もある。平民のフルウィウス氏族の出で、祖父は紀元前264年の執政官マルクス・フルウィウス・フラックス、父は執政官を四度務めた同名のクィントゥス・フルウィウス・フラックスである。兄弟には、養子に出てルキウス・マンリウス・アキディヌス・フルウィアヌスと名乗った者と、紀元前180年に高級士官を務めたマルクスがいる。
政治歴は紀元前184年の上級按察官に始まる。この年、法務官が任期中に死去すると、本来資格のない上級按察官でありながら補充法務官選挙に出る決意をした。民衆に人気があって勝利の可能性は高く、執政官から出馬を控えるよう求められても聞き入れず、結局、補充選挙は行われなかった。紀元前182年に法務官となり、ローマ軍とケルティベリア人が戦うヒスパニア・キテリオルに派遣された。ウルビキュアの包囲戦では何度か敗れたが退かず、ついに町を奪った。翌年も前法務官として軍を指揮し、集結した35,000のケルティベリア軍をアエブラとコントレビアの戦いで破り、多くの城塞を占領して、ケルティベリアの大部分を征服した。後任の到着が遅れたため紀元前180年も軍を率い、大きな戦闘で再び勝った。この年、死去したガイウス・セルウィリウス・ゲミヌスに代わって神祇官にも就いた。帰国の際には、ヒスパニアでの誓いとして、ユピテルの祭典と、騎士の幸運の女神フォルトゥナの神殿建設を約束したとされる。
大きな栄光とともにローマへ戻ったフラックスは、凱旋式のために市外で待つうちに執政官に選ばれた。同僚はパトリキの執政官ルキウス・マンリウス・アキディヌス・フルウィアヌスで、二人は実の兄弟だった。古代の歴史家は、兄弟がそろって執政官となるのは珍しいと記している。最初の仕事はヒスパニアでの勝利をユピテルに感謝することで、続いて両執政官はリグリアに出征した。兄に特筆すべき働きはなかったが、フラックスはある部族を降伏させて勝利し、前年に続いて凱旋式を行った。ただしリウィウスは、この凱旋式は勝利の重みより、彼への感謝のために行われたと信じられていた、と記している。
紀元前174年、フラックスは監察官となり、同僚のパトリキ監察官はアウルス・ポストゥミウス・アルビヌス・ルスクスだった。両者はスキピオ・アフリカヌスの息子のルキウスとマルクスを含む9人を元老院から除名した。また、市内の道路を黒灰色の石で、市外の道路を砂利で舗装し、歩道や橋を設ける契約を最初に結び、フォルムからカピトリヌスの丘への坂や市場の舗装、いくつかの柱廊の建設も行った。翌年、誓いを果たすためフォルトゥナ・エクエストゥリス神殿を建て、ローマで最も壮大な神殿にしようと考えた。大理石の瓦で屋根を葺くためブルティウムへ下り、ユーノー・レーギーナ神殿の屋根を半分取り壊したが、憤った元老院は板を送り返すよう命じた。
紀元前172年、イリュリアで務めていた息子の一人が死に、もう一人も危篤となった。これを知ったフラックスは恐怖と悲しみのあまり寝室で首を吊った。ウァレリウス・マクシムスは「悲劇の中で希望を失った」と簡潔に記す。ローマでは、ユーノー・レーギーナの怒りで正気を失ったのだという噂が広まった。
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