伝記
ピウス9世は、1792年5月13日に教皇領のセニガッリアで、貴族の家に生まれたローマ教皇である。本名はジョヴァンニ・マリア・マスタイ=フェッレッティといった。神学校で学んで1819年に叙階され、1823年には、チリ政府の要請で派遣された宣教団の監査官として南アメリカに渡った。ウルグアイとアルゼンチンを経て翌年3月にサンティアゴに着いたが、オイギンスの失脚後に現地当局が教会と対立したため、宣教団の任務は中断され、約2年ぶりにローマへ戻った。1831年にスポレートの大司教に任じられ、1840年に枢機卿に選ばれた。
グレゴリウス16世の死去を受けたコンクラーヴェは、保守派と改革派が激しく争った末にフェレッティを選び、彼はピウス9世を名乗った。1846年6月16日、54歳での選出は、1700年以来の最年少だった。就任当初はリベラル寄りの改革派と見られ、先代が「鉄道は地獄への道」として許さなかった教皇領での鉄道敷設を認め、出版の検閲を緩め、政治犯を恩赦した。教皇領への侵犯には断固として反対し、メッテルニヒらオーストリアの脅しにも領土の独立を毅然と主張したため、イタリアの民族主義者は彼を「覚醒教皇」と呼び、統一運動の象徴として支持した。
しかし1848年の革命でオーストリア支配下の北イタリアが動くと、サルデーニャ王国がオーストリアに宣戦した。民族主義者は教皇軍の援軍を期待したが、彼はカトリック教国のオーストリアとの摩擦を嫌い、同年4月に、戦争はカトリックの分裂を招くとして教会は一切介入しないという教書を出し、統一運動とは一線を画した。革命の影響が教皇領にも及ぶと、教皇自身も自由主義から距離を置くようになった。3月に出したローマ新憲法は教会の優位を認める保守的なもので、自由主義者を失望させた。首相ロッシが暗殺されて暴動が起き、教皇自身も市民軍に軟禁されたので、11月24日、ローマを離れて密かに両シチリア王国のガエータへ逃れた。教皇領にローマ共和国が成立すると、破門を宣言した。
フランス大統領ルイ・ナポレオンは、国内のカトリック保守派の歓心を買うため、1849年4月にフランス軍を送った。ガリバルディの軍勢に一度は敗れたが、立て直して共和国を滅ぼし、教皇は1850年にローマへ帰還した。これ以後、ローマには教皇の守護のためフランス軍が駐屯するようになった。
その後、サルデーニャ王国との対立は激しくなった。同国のダゼーリョ内閣は教会の特権の廃止や民事婚の制定を目指し、彼はそのたびに圧力をかけたが、教会のアジール権を廃する法案は可決された。1855年に修道院法案が提出されると、教皇は関与した者を破門すると脅した。法案は成立し、7月26日、彼は国王ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世や首相カヴールらを全員破門した。1859年6月にはペルージャでの反乱の鎮圧にスイス傭兵を差し向け、自由主義者から批判された。やがてイタリア統一運動のなかで、彼は中世以来の教皇領を失い、第1バチカン公会議を召集し、「誤謬表」を発表して近代社会との決別を宣言した。聖母マリアの無原罪の御宿りの教義も正式に定めた。31年7か月という最長の在位ののち、1878年2月7日に没した。のちにカトリック教会の福者とされた。
同じ年に亡くなった人物
- カール (シュレースヴィヒ=ホルシュタイン=ゾンダーブルク=グリュックスブルク公) (1878年没)
- アンドリュー・スコット・ウォー (1878年没)
- ジョージ・クルックシャンク (1878年没)
- メフメト・アリ・パシャ (1878年没)
- アンドリュー・ディクソン・マレー (1878年没)
同じ地域に関係する人物
- アンジェロ・マイ (1854年没)
- マルケリヌス (ローマ教皇) (304年没)
- カルロ・アツェリオ・チャンピ (2016年没)
- Alberto Ghilardi (1971年没)
- アウレリア・コッタ (紀元前53)