HISTORICAL PERSON · 紀元前170年没

ガイウス・リウィウス・サリナトル

共和政ローマの政務官。紀元前193年のムティナの戦いでは騎兵の突撃が勝利を決定づけたという。紀元前191年にはローマ・シリア戦争で艦隊を率いてシリア艦隊を破り、紀元前188年に執政官を務めた。

生涯
紀元前170年没
死亡地
—
出生地
イタリア共和国(ローマ県 / 古代ローマ)
出典
世界地図
イタリア共和国(ローマ県)

伝記

ガイウス・リウィウス・サリナトルは、紀元前3世紀終わりから紀元前2世紀初頭にかけての共和政ローマの政務官・軍人で、紀元前188年に執政官(コンスル)を務めた人物である。紀元前234年ごろに生まれ、紀元前170年に死去したとされる。

出身は平民(プレプス)のリウィウス氏族である。この氏族はラティウムに起源を持ち、紀元前338年以降に新貴族としてローマの政治に登場した。紀元前324年にはマルクス・リウィウス・デンテルが独裁官パピリウス・クルソルの騎兵長官を務めて軍事的な能力を評価され、紀元前302年にはその同名の息子が氏族として最初の執政官となり、歴史家ミュンツァーはこの人物をサリナトルの曽祖父と推定している。父は紀元前219年と紀元前207年に執政官を務め、紀元前204年には監察官にもなったマルクス・リウィウス・サリナトルと考えられる。キケロはサリナトルを大カトと同年齢としており、それが正しければ紀元前234年生まれになる。

経歴は紀元前211年、死去したマニウス・ポンポニウス・マトに代わって神祇官の一員となったことに始まり、この職は死の年ごろまで務めたとされる。紀元前204年に上級按察官、紀元前202年に法務官となった。第二次ポエニ戦争はまだ続いており、2個軍団を率いてブルティウムでカルタゴ軍と戦った。第二次マケドニア戦争中の紀元前199年にはローマ艦隊の司令官に任じられたが、前任者のルキウス・アプスティウス・フッロが秋まで権限を委譲せず、紀元前198年春には新しい司令官ルキウス・クィンクティウス・フラミニヌスがバルカン半島に到着したため、結局何もしなかったとされる。紀元前193年には、執政官ガリアで執政官ルキウス・コルネリウス・メルラの下に仕え、騎兵部隊を指揮した。ムティナの戦いでボイイ族に対するローマの勝利を決定づけたのは、彼の突撃だったという。この年の執政官選挙は、マニウス・アキリウス・グラブリオら7人の有力者が乱立する激しいものだったが、サリナトルもここに立候補して落選した可能性がある。

紀元前191年、2度目の法務官となり、ローマ・シリア戦争では艦隊を率いてアンティオコス3世とアエトリア同盟の連合軍と戦った。ケファロニア島とザキントス島を服従させ、ペルガモンの艦隊も加えて小アジアの海岸に移動し、ポリュクセニダスが率いるシリア艦隊を撃破した。この戦いはコリュコス沖の海戦として知られ、アンティオコスの艦隊を破ったとも伝えられる。ポカイアで冬営した後は、ルキウス・コルネリウス・スキピオ(後のスキピオ・アシアティクス)が率いるローマ陸軍のヘレスポントス海峡渡海を支援した。その後ルキウス・アエミリウス・レギッルスと交代し、リュキアへの任務を果たし、ビテュニアへの使節団を率いたのち、紀元前190年末にローマに戻った。

紀元前188年、サリナトルは執政官に選ばれた。同僚のパトリキの執政官はマルクス・ウァレリウス・メッサッラだった。ガリア・キサルピナでの戦争を担当したが、出発の三日前の7月17日には皆既日食があり、ローマが闇に包まれたという。ガリアではフォルム・リウィイ、現在のフォルリを建設した。サリナトルは紀元前170年に死去した。紀元前130年ごろには、サリナトルのコグノーメンを持つ人物が法務官として記録されており、ミュンツァーはこれを彼の子孫と考えている。

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