伝記
ガイウス・リウィウス・サリナトルは、紀元前3世紀終わりから紀元前2世紀初頭にかけての共和政ローマの政務官・軍人で、紀元前188年に執政官(コンスル)を務めた人物である。紀元前234年ごろに生まれ、紀元前170年に死去したとされる。
出身は平民(プレプス)のリウィウス氏族である。この氏族はラティウムに起源を持ち、紀元前338年以降に新貴族としてローマの政治に登場した。紀元前324年にはマルクス・リウィウス・デンテルが独裁官パピリウス・クルソルの騎兵長官を務めて軍事的な能力を評価され、紀元前302年にはその同名の息子が氏族として最初の執政官となり、歴史家ミュンツァーはこの人物をサリナトルの曽祖父と推定している。父は紀元前219年と紀元前207年に執政官を務め、紀元前204年には監察官にもなったマルクス・リウィウス・サリナトルと考えられる。キケロはサリナトルを大カトと同年齢としており、それが正しければ紀元前234年生まれになる。
経歴は紀元前211年、死去したマニウス・ポンポニウス・マトに代わって神祇官の一員となったことに始まり、この職は死の年ごろまで務めたとされる。紀元前204年に上級按察官、紀元前202年に法務官となった。第二次ポエニ戦争はまだ続いており、2個軍団を率いてブルティウムでカルタゴ軍と戦った。第二次マケドニア戦争中の紀元前199年にはローマ艦隊の司令官に任じられたが、前任者のルキウス・アプスティウス・フッロが秋まで権限を委譲せず、紀元前198年春には新しい司令官ルキウス・クィンクティウス・フラミニヌスがバルカン半島に到着したため、結局何もしなかったとされる。紀元前193年には、執政官ガリアで執政官ルキウス・コルネリウス・メルラの下に仕え、騎兵部隊を指揮した。ムティナの戦いでボイイ族に対するローマの勝利を決定づけたのは、彼の突撃だったという。この年の執政官選挙は、マニウス・アキリウス・グラブリオら7人の有力者が乱立する激しいものだったが、サリナトルもここに立候補して落選した可能性がある。
紀元前191年、2度目の法務官となり、ローマ・シリア戦争では艦隊を率いてアンティオコス3世とアエトリア同盟の連合軍と戦った。ケファロニア島とザキントス島を服従させ、ペルガモンの艦隊も加えて小アジアの海岸に移動し、ポリュクセニダスが率いるシリア艦隊を撃破した。この戦いはコリュコス沖の海戦として知られ、アンティオコスの艦隊を破ったとも伝えられる。ポカイアで冬営した後は、ルキウス・コルネリウス・スキピオ(後のスキピオ・アシアティクス)が率いるローマ陸軍のヘレスポントス海峡渡海を支援した。その後ルキウス・アエミリウス・レギッルスと交代し、リュキアへの任務を果たし、ビテュニアへの使節団を率いたのち、紀元前190年末にローマに戻った。
紀元前188年、サリナトルは執政官に選ばれた。同僚のパトリキの執政官はマルクス・ウァレリウス・メッサッラだった。ガリア・キサルピナでの戦争を担当したが、出発の三日前の7月17日には皆既日食があり、ローマが闇に包まれたという。ガリアではフォルム・リウィイ、現在のフォルリを建設した。サリナトルは紀元前170年に死去した。紀元前130年ごろには、サリナトルのコグノーメンを持つ人物が法務官として記録されており、ミュンツァーはこれを彼の子孫と考えている。
同じ年に亡くなった人物
- プブリウス・コルネリウス・スキピオ・ナシカ (紀元前170年代没)
- ルキウス・コルネリウス・レントゥルス (紀元前199年の執政官) (紀元前170年代没)
- ルキウス・クィンクティウス・フラミニヌス (紀元前170年没)
同じ地域に関係する人物
- ベネディクトゥス8世 (ローマ教皇) (1024年没)
- マリーア・ルイーザ・ディ・スパーニャ (1824年没)
- フアン・デ・トルケマダ (1468年没)
- クラウディアヌス (404年没)
- ルイ1世 (モナコ公) (1701年没)