HISTORICAL PERSON · 紀元前160年代没

グナエウス・オクタウィウス (紀元前165年の執政官)

共和政ローマの平民出身の政治家・軍人。第三次マケドニア戦争でローマ海軍を指揮し、マケドニア王ペルセウスに降伏を強いて凱旋式を挙行した。紀元前165年にオクタウィウス氏族最初の執政官となった。

生涯
紀元前160年代没
死亡地
トルコ共和国(デニズリ県 / ラオディキア)
出生地
古代ローマ
出典
世界地図
トルコ共和国(デニズリ県)

伝記

グナエウス・オクタウィウスは、共和政ローマの平民出身の政治家・軍人である。紀元前165年に執政官を務め、第三次マケドニア戦争ではローマ海軍を指揮した。ローマで最初のコリント式ポルチコ、ポルティクス・オクタウィアを建てた人物でもあり、紀元前162年に没した。

オクタウィウス氏族は、紀元前3世紀半ばに現れた平民の家柄である。最初に名が知られるのは、紀元前230年に財務官となったグナエウス・オクタウィウス・ルフスで、二人の息子が二つの家系を興した。弟ガイウスの系統からは、のちのローマ帝国初代皇帝アウグストゥスが出たが、共和政期にはあまり高い官職に就かなかった。兄の家系は官職を順に進み、祖父のグナエウスは上級按察官、父のグナエウスは紀元前205年に法務官を務めた。父はカンナエの戦いに加わり、法務官の時から第二次ポエニ戦争の終結まで艦隊を指揮し、のちにギリシア方面への使節団にも何度か加わった。ギリシア文化に通じていたために選ばれたのだとみられている。ただし、父を法務官のグナエウスとする見方が多い一方、両者を兄弟とする説もある。

オクタウィウス自身は、財務官を務めたことがあるかもしれないが、確かな記録の初出は紀元前172年の上級按察官である。紀元前170年の秋、執政官ホスティリウス・マンキヌスのもとへ使節としてギリシアに渡り、元執政官のガイウス・ポピッリウス・ラエナスと行動をともにした。目的は、第三次マケドニア戦争の最中にギリシアの諸国をローマにつなぎとめることであった。二人は、ローマの官吏が元老院の承認なく物資を徴発することを禁じる元老院決議を各地に伝えた。これはギリシア人を強要から守るためであり、元老院が司令官たちを統制する手段でもあった。一方で、ローマに協力的でない者を把握していると各地で告げたため、歴史家ポリュビオスによれば不安を生んだ。アカイア同盟の会議ではポリュビオスらを非難しようとしたという噂が流れたが、証拠はなかった。アイトリア同盟では人質を要求し、会議は混乱のうちに終わった。それでもアルゴスやエリスでは、オクタウィウスをたたえる碑文が見つかっている。紀元前169年にローマへ戻ると、シビュラの書を扱う十人委員の祭司に任じられた。

紀元前168年に法務官となり、艦隊司令官としてバルカン半島へ向かった。ピュドナの戦いでローマ軍が決定的に勝つと、メリベアを占領し、サモトラケ島に逃れたマケドニア王ペルセウスを降伏させた。ルキウス・アエミリウス・パウルスがアンフィポリスで戦後の統治方針(四つの自治共和国への分割、材木伐採の禁止、税の半減)を宣言したときには、それをギリシア語に通訳した。帰国後は、パウルスらとともに凱旋式を挙行する栄誉を得て、その記念にポルティクス・オクタウィアを建てた。

紀元前165年にはティベリウス・マンリウス・トルクァトゥスとともに執政官となった。オクタウィウス氏族で最初の執政官である。キケロによれば、戦利品の金銭が選挙に有利に働き、パラティヌスの丘には壮大な邸宅も建てた。紀元前163年、東方への使節として派遣され、マケドニアの状況の調査、カッパドキア王とガラティアの紛争の調停、シリアでのアパメイアの和約の遵守の要求などにあたった。しかしこれが現地住民の怒りを買い、ラオディキアのギュムナシオンで暗殺された。暗殺者は捕らえられてローマへ送られ、オクタウィウスはラオディキアに葬られた。のちにフォルム・ロマヌムに像が建てられた。同名の息子は紀元前128年に執政官に就いている。

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