HISTORICAL PERSON · 紀元前159年没

エウメネス2世

アッタロス朝ペルガモン王。マグネシアの戦いでアンティオコス3世を破りアパメイアの和約で領土を拡大、ペルガモン図書館を拡張した。

生涯
紀元前159年没
死亡地
—
出生地
—
出典
世界地図
位置情報未登録

伝記

エウメネス2世は、小アジアのペルガモン王国を治めたアッタロス朝の王である。在位は紀元前197年から紀元前159年(159/158年とも)で、「救済者」と称された。紀元前221年の生まれとされ、アッタロス1世と、キュジコス出身のアポロニスの長男である。ポリュビオスは母アポロニスに賛辞を送っている。紀元前197年に24歳で父の跡を継いだが、父の存命中から王の権限に参与していたという。この王の時代にペルガモンは領土と文化の両面で頂点に達した。

アッタロス朝は紀元前209年に結んだ友好条約以来、ローマの同盟者であった。エウメネスは親ローマの政策をとり、エーゲ海方面へのセレウコス朝の拡大を食い止めるため、ローマと協力した。紀元前196年にアンティオコス3世がトラキアに侵入し、先祖の遺産を継ぐ権利を主張すると、ローマはこれを警戒した。ローマの総督で親ギリシア派のフラミニヌスは、アンティオコスを抑えるため同盟を結んで回った。アンティオコスはさらにアイトリア人と結び、カルタゴから逃れてきたハンニバルを宮廷に迎えるなかで、ローマと対立が深まった。エウメネスは紀元前194年にアンティオコスから持ちかけられた同盟を断ったと、紀元前189年のローマ元老院との交渉で語っている。ローマに軍事行動を促した一人であり、ロドスとともにローマの主要なアジアの同盟者となって、ハンニバルの艦隊の合流を阻んだ。紀元前190年にはシデとミュオンネソスの海戦で勝利を収めた。

同じ年、マグネシアの戦いでエウメネスはローマ軍の騎兵を指揮した。ローマ3万に対し、アンティオコスの軍は7万5千と伝えられるが、ローマとその同盟者が勝利した。紀元前188年のアパメイアの和約でアンティオコスはタウロス山脈の向こうへ退けられた。エウメネスは紀元前187年にローマの委員から、ヨーロッパ側のケルソネソス半島、ミュシア、二つのフリュギア、リュカオニア、リュキアの一部、リュディア、イオニアのエフェソスなどを与えられ、王国は大きく広がった。ただ、ペルガモンが旧セレウコス領の大部分を得たため、ビテュニア王は和約で自国が不利益を被ったと考え、ビテュニアやポントスとの争いが生じた。

その後、第三次マケドニア戦争が起こった。相手のペルセウスは、父フィリッポス5世が長男デメトリオスを殺させたのち、紀元前179年にマケドニアの王位に就いた人物である。ペルセウスはローマとの良好な関係を保とうと努め、紀元前175年頃までは何事もなく進んだが、そのころからエウメネスは元老院に盛んに不満を訴えた。のちにローマは、エウメネスがペルセウスと通じていると疑ったとされる。紀元前167年には、弟のアッタロス2世を買収してペルガモンの王位を狙わせ、釈明のためのエウメネスのイタリア入国も拒んだという。

エウメネスはペルガモンの図書館を拡張した。この図書館は古代世界で屈指のもので、アレクサンドリアに次ぐ規模だったとされる。ペルガモンの大祭壇も、治世の初めに築かれたと推測されている。また、アテナイのアクロポリスには、エウメネスの柱廊を建てた。妻はカッパドキア王アリアラテス4世の娘ストラトニケで、アッタロス3世の母である。エウメネスが紀元前159年に没したとき、息子はまだ幼かったため、王位は弟のアッタロス2世が継ぎ、未亡人となったストラトニケと結婚した。

同じ年に亡くなった人物

同じ地域に関係する人物

該当人物はまだありません。