伝記
後白河天皇は、1127年10月18日に生まれ、1192年4月26日に崩御した、日本の第77代天皇である。在位は1155年から1158年までで、諱は雅仁という。鳥羽上皇と中宮の藤原璋子の第四皇子として生まれ、異母弟の近衛天皇の崩御で皇位を継いだ。譲位ののちは34年にわたって院政を敷き、保元の乱、平治の乱、治承・寿永の乱の時代を生きた。
皇位継承とは縁のない気楽な立場にあった雅仁親王は、遊びに明け暮れ、とくに今様を愛好して熱心に研究した。のちに『梁塵秘抄口伝集』に、10歳余りのときから今様を愛し、昼は一日中、夜は一晩中、歌い通したと自ら記している。その没頭ぶりは周囲に常軌を逸したものと映り、鳥羽上皇は「即位の器量ではない」とみなした。最初の妃は源有仁の養女の懿子で、1143年に守仁親王(のちの二条天皇)を産んで急死した。次の妃は藤原成子であった。1155年、近衛天皇が崩御すると、美福門院の養子となっていた守仁親王が即位するまでの中継ぎとして、立太子を経ないまま29歳で即位した。1156年に鳥羽法皇が崩御して保元の乱が起こると、後見の信西が主導権を握り、後白河天皇は形式的な存在であった。1158年に、守仁に譲位して太上天皇となったが、皇位継承の決定権をもたない後白河上皇は、院政の主導者として認められていなかった。
1159年12月9日の夜、院御所の三条殿が藤原信頼と源義朝の軍に襲撃され、後白河院は内裏の一本御書所に幽閉された。信西は殺害され、信頼が政権を握ったが、二条親政派と手を結んだ平清盛が信頼らを破った。後白河院は、乱の最中に幽閉先を自力で脱出して、仁和寺に避難していた。乱後、院は、二条親政派の中心だった大炊御門経宗と葉室惟方の逮捕を清盛に命じた。1160年10月、院は焼失した三条殿に代わる院政の拠点として、法住寺殿の造営に取りかかり、鎮守として日吉社と熊野社を勧請した。まもなく初めての熊野詣に出発し、清盛も同行した。熊野詣は、以後34回に及んだという。熊野詣の最中の11月23日、美福門院が崩御した。1161年9月、院の寵愛を受けた平滋子が憲仁親王(のちの高倉天皇)を産むと、憲仁の立太子の陰謀が発覚して、院政派の平時忠らが二条帝に解官され、後白河院は政治決定の場から排除された。1164年、院は千体の観音堂、蓮華王院を造営したが、落慶供養の日に二条帝の行幸を望んでも、二条帝が全く関心を示さなかったため、「ヤヤ、ナンノニクサニ」と嘆いたという。
1165年に二条帝が譲位し、まもなく崩御すると、六条天皇のもとで体制の維持が図られたが、政権は不安定で、後白河院政派は息を吹き返した。12月、院は憲仁に親王宣下を行い、清盛を親王の勅別当とした。1166年に摂政の近衛基実が急死し、摂関家と平氏が後白河院政派に鞍替えして、二条親政派は完全に瓦解した。院近臣が次々に公卿へ昇進し、10月には憲仁親王の立太子が実現し、11月に院は清盛を内大臣とした。後白河院は、新興の鎌倉幕府とは多くの摩擦を抱えながらも協調し、のちの公武関係の枠組みをつくった。晩年は仏教を厚く信じて、東大寺の大仏の再建に積極的に取り組んだ。和歌は不得手だったが、今様を愛して『梁塵秘抄』を撰した。
同じ年に亡くなった人物
- Albert of Louvain (1192年)
- ユーグ3世 (ブルゴーニュ公) (1192年没)
- オットカール4世 (シュタイアーマルク公) (1192年没)
- ヴァーツラフ2世 (1192年没)
- ガルニエ・デ・ナブルス (1192年)