HISTORICAL PERSON · 1425年没

足利義量

室町幕府の第5代将軍で、足利義持の長男。1423年に17歳で将軍職を譲られたが、実権は隠居した父や有力管領が握っていた。生来病弱で、1425年に父に先立って19歳で急死し、嗣子はなかった。

生涯
1425年没
死亡地
日本(京都府 / 京都市)
出生地
日本(京都市)
出典
世界地図
日本(京都府)

伝記

足利義量は、応永14年7月24日(1407年8月27日)に生まれ、応永32年2月27日(1425年3月17日)に没した、室町幕府の第5代征夷大将軍である。在職は応永30年3月18日(1423年4月28日)から亡くなるまでで、足利尊氏の来孫にあたる。前将軍の足利義持の長男で、母は義持の正室、日野資康の娘の日野栄子である。法名は長得院といい、なお日付は旧暦による。

応永24年(1417年)12月1日、義持が加冠して元服し、正五位下右近衛中将に任じられた。義持は嫡子の義量をかなり寵愛していたらしく、参詣や参籠、遊覧のときには、ほとんど義量を同行させたという。義持の子で元服まで生き延びたのは義量だけで、義持の寵愛はかなりのものだったと伝わる。義量の大叔父である足利満詮が亡くなるとき、娘を義量に嫁がせることを条件に所領を譲ったが、まもなく義持は満詮の娘を無理に出家させ、義量と別れさせたという。

義量は疱瘡を患うなど生まれつき病弱で、そのうえ大酒飲みでさらに体を壊したといわれる。江戸時代後期の『大日本野史』には、酒を好み飲みすぎたとあり、田中義成や永原慶二らの歴史家も、酒のために早世したと述べている。『花営三代記』応永28年(1421年)6月の条には、15歳の義量が父に大酒を戒められ、近臣が義量に酒を勧めないという起請文を取られたという話もある。ただし清水克行は、この起請文は義持がたびたび禁酒令を出していたことによるもので、これを除くと義量と酒を結びつける同時代の史料はなく、大酒飲みだったとは認められないと指摘している。

応永30年(1423年)1月1日、義持と義量は父子で参内し、その後、畠山満家、斯波義淳、細川満元らの屋敷をそれぞれ訪れている。このことから、年の初めから義量への将軍職譲渡の根回しが行われていたと推測される。3月18日、義量は17歳で父から将軍職を譲られ、第5代将軍に就任した。就任の日には諸大名が、3月20日には僧俗が群れをなして参り、馬や太刀を献上して祝ったという。大御所となった義持はまだ38歳で、これは義持自身が父の義満に早く将軍職を譲られた例を踏襲したものとされる。応永31年(1424年)10月13日には参議に任じられて、朝廷の重臣に連なった。義量には幕政の実権はほとんどなく、隠居した義持や有力な管領らがそれを握っていた。死の2、3年前から病を得て、さまざまな治療や祈祷を受けていたが、応永32年2月27日に、父に先立って急死した。数え年で19歳(満17歳)であった。義量に子も兄弟もなく、義持は後継ぎを定めないまま、正長元年(1428年)に死ぬまで政務をとった。突然の死に、義持が殺した叔父義嗣の怨霊のためとも、義持が寺社統制のために石清水八幡宮の神人を数十人殺した神罰ともいう噂が流れた。康正3年(1457年)2月27日には、贈従一位左大臣を受けた。栃木県足利市の鑁阿寺には、義量の木像がある。

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