伝記
オリオ・マストロピエロは、ヴェネツィア共和国の第40代元首(ドージェ)で、1178年から1192年までその職にあった人物である。生まれた年はわかっていない。元首になる前は、ヴェネツィアでも一、二を争う大富豪であり、外交官としてシチリアのパレルモとコンスタンティノープルに大使として赴いた。1171年に元首ヴィターレ2世ミキエルがビザンツ帝国との戦争の費用をまかなうために行った国の借り入れを、中心となって進めた一人でもあった。
1178年、すでに高齢だった彼は、セバスティアーノ・ツィアーニの引退を受けて元首に選ばれた。この選挙は、ツィアーニが定めた新しい方式による最初のもので、大評議会の4人が40人の選挙委員を選び、その委員会が元首を選ぶ仕組みであった。元首になってからは、元首評議会の設立などの政治改革を進め、ヴェネツィアの内部を固めた。最初の布告の一つは、「犯罪の誓約」と呼ばれ、当時の法の要約と刑罰の見直しであった。法的な争いで国の利益を守る代理人の団を設け、四十人委員会も置いた。四十人委員会は、はじめは助言の機関であったが、のちに最高の裁判所となった。
対外面では、1186年か1187年に、ビザンツ皇帝イサキオス2世アンゲロスと相互防衛の条約を結んだ。条約では、ヴェネツィアの造船所で40隻から100隻の軍船をつくり、ヴェネツィア人が乗り組むことも定められ、事実上ビザンツの艦隊の支配をヴェネツィア人の手に握らせるものであった。マストロピエロはこのとき、皇帝からプロトセバストスの称号を与えられたともいう。一方、アドリア海では、ハンガリー王ベーラ3世がザダルとダルマチアの全域を取り戻し、元首はこれを奪い返せなかった。ベーラ3世とは2度戦ったが、いずれも失敗に終わった。
1187年にハッティンの戦いで、サラディンがエルサレム王ギーを破り、まもなくエルサレムを占領した。このため教皇グレゴリウス8世が新しい十字軍を呼びかけ、ヴェネツィアも加わった。ハンガリーとの戦争がうまくいっていなかったため、ヴェネツィアは十字軍を口実に、名誉ある形で戦いから手を引くことができた。聖地でのキリスト教側の後退は、ヴェネツィアの商業の利益にも大きな打撃だった。元首は、遠征費をまかなうため、強制の公債を課して、1189年に艦隊を出航させた。この十字軍はイングランド王リチャード1世とフランス王フィリップ2世が率い、最大の成果はアッコの奪回であった。ヴェネツィアの働きは、おもに海上輸送だったと考えられ、アッコにあった自国の居住区を取り戻した。マストロピエロは1192年に没した。高齢のため退位したともいわれるが、没した日や墓の場所はわかっていない。
同じ年に亡くなった人物
- クルチ・アルスラーン2世 (1192年没)
- ヴァーツラフ2世 (1192年没)
- ジョスラン3世 (エデッサ伯) (1192年(推定))
- 後白河天皇 (1192年没)
- オットカール4世 (シュタイアーマルク公) (1192年没)
同じ地域に関係する人物
- Isabella Teotochi Albrizzi (1836年没)
- ドメニコ・チマローザ (1801年没)
- ヨハン・アドルフ・ハッセ (1783年没)
- ティツィアーノ・ヴェチェッリオ (1576年没)
- カナレット (1768年没)