伝記
カジミェシュ2世は、ポーランド大公(在位1177年から1190年、1190年から1194年)である。正義公(スプラヴィエドリヴィ)とも呼ばれるが、この称号は同時代のものではなく、16世紀になって現れた。ボレスワフ3世と2番目の妃サロメア・フォン・ベルクの子で、1138年に、父の死後、ただし父の死と同じ日に生まれた。そのため父の遺言には名が記されず、領地を持たなかった。ヴワディスワフ2世の異母弟で、ボレスワフ4世、ミェシュコ3世、ヘンリクの同母弟にあたる。
幼いころは、姉のアグネスとともに、母サロメアの寡婦領であるウェンチツァで暮らした。1144年に母が没すると、兄のボレスワフ4世に育てられた。1151年に13歳となって領地を治められる年齢になっても、何も得られなかった。1157年には、皇帝フリードリヒ・バルバロッサがヴワディスワフ2世を助けてポーランドに遠征し、ボレスワフ4世が結んだ条約の一部として、カジミェシュは兄が皇帝に忠実であることの保証のため、人質としてドイツへ送られた。皇帝の宮廷でどうなったかは分からないが、1161年5月21日より前にポーランドへ戻った。1163年ごろには、モラヴィアのズノイモ公コンラート2世の娘ヘレナと結婚した。
1166年に、兄ヘンリクがプロイセンへの十字軍で戦死した。ヘンリクは遺言でカジミェシュをサンドミェシュ公領のただひとりの相続人としていたが、大公ボレスワフ4世は、公領を三つに分け、中心地サンドミェシュを含む最大の部分を自分のものにし、別の部分をミェシュコ3世に与えて、カジミェシュにはヴィシリツァの小さな地区しか与えなかった。怒ったカジミェシュは、ミェシュコ3世やグニェズノ大司教ら有力者の支持を得て反乱を起こした。ボレスワフ4世の素早い動きで反乱は抑えられ、ヴィシリツァだけが残った。1172年にミェシュコ3世がふたたび大公に反乱を起こして弟に加わるよう誘ったときは、理由は分からないが、カジミェシュは加わらなかった。1173年にボレスワフ4世が没すると、年長者が継ぐ原則にしたがって、ミェシュコ3世が大公となり、サンドミェシュ公領の全体をカジミェシュに与えた。
しかし、新しい大公の強い独裁的な支配は、小ポーランドの貴族に深い不満を生んだ。1177年にはあらたな反乱が起こり、今度は勝つ見込みが十分にあった。カジミェシュは貴族と教会の有力者の支持を得てクラクフを手に入れ、大公となった。ミェシュコ3世は追放された。1180年のウェンチツァの会議では、教会に大きな特権を認め、教会の財産と後継者の決定に対する大公の権限を制限した。これにより国内での支持を固め、力ずくでなく合意で治める君主との評判を得た。ウクライナなどへの進出も試みたが、ミェシュコ3世に短い期間、大公の座を奪われたこともあり、貴族の反乱も起こって、王権はいつも不安定であった。1186年には、甥のレシェクからマゾフシェ公領を受け継いだ。
カジミェシュは1194年5月5日に没した。子は7人あった。娘のマリアは1178年にキエフ大公フセヴォロド4世と結婚し、息子のレシェク1世がその跡を継いだ。
同じ年に亡くなった人物
- ギー・ド・リュジニャン (1194年没)
- レーモン5世 (トゥールーズ伯) (1194年没)
- レオポルト5世 (オーストリア公) (1194年没)
- サンチョ6世 (ナバラ王) (1194年没)
- 孝宗 (宋) (1194年没)
同じ地域に関係する人物
- アンナ・ツィレイスカ (1416年没)
- マチェイ・スウォムチンスキー (1998年没)
- バルバラ・ラジヴィウヴナ (1551年没)
- ヴワディスワフ・ジェレンスキ (1921年没)
- ルドルフ・フェルディナント・ヘス (1947年没)