伝記
ハインリヒ獅子公は、中世ドイツの有力な領邦君主で、ザクセン公(ハインリヒ3世、在位1142〜1180年)とバイエルン公(ハインリヒ12世、在位1156〜1180年)を兼ねた。ヴェルフ家の出身で、1180年に従兄のフリードリヒ1世に二つの公領を奪われるまでは、当時最も強い力を持つドイツの君主の一人であった。最盛期の領地は、北海やバルト海の沿岸からアルプス山脈まで、ヴェストファーレンからポンメルンにまで及んだ。その権力は、政治的・軍事的な洞察力と、四人の祖父母から受け継いだ遺産によるものとされる。
1129年ごろ、バイエルン公とザクセン公を兼ねたハインリヒ10世と、妃ゲルトルートの子としてラーフェンスブルクに生まれた。父方の祖父はバイエルン公ハインリヒ9世で、祖母はザクセン公家ビルング家の女性相続人ヴルフヒルトである。母方の祖父は皇帝ロタール3世で、祖母リヒェンツァはノルトハイム家のザクセン領とブラウンシュヴァイクを受け継ぐ相続人であった。1138年に父は皇帝位を争ったコンラート3世に敗れて追放され、両公領を奪われたまま翌年に没した。ハインリヒは遺産の要求を取り下げず、1142年にコンラート3世からザクセンの所領を返された。第2回十字軍では、不当に奪われたバイエルン公位の返還を訴えたが聞き入れられず、公とザクセンの貴族は参加を拒み、代わりに1147年のヴェンド十字軍に加わった。1156年には従兄フリードリヒ1世に求めてバイエルン公位も回復した。
ハインリヒは都市の建設にも力を注ぎ、1157年(または1158年)にミュンヘンを、1159年にリューベックを興し、シュターデ、リューネブルク、ブラウンシュヴァイクを町から都市へ発展させた。拠点のブラウンシュヴァイクには1166年に自らの紋章にちなむライオン像を建てた。アルプス以北で最初の青銅像とされる。私生活では、1147年にクレメンティア・フォン・ツェーリンゲンと結婚したが、1162年に皇帝の圧力で離婚し、1168年にイングランド王ヘンリー2世の娘マティルダと再婚した。宮廷に官房を置いて文書を活用し、夫妻は豪華な装飾写本「ハインリヒ獅子公の福音書」を作らせ、「ローランの歌」をドイツ語に訳させたという。
長く皇帝を支えてきたが、フリードリヒ1世がロンバルディア遠征を再開した際に援助を拒み、遠征が大失敗に終わると、皇帝は深く憤った。皇帝はハインリヒへの他の諸侯の敵意を利用し、諸侯の法廷の決議による不服従の罪で1180年に彼を追放刑に処し、所領を没収した。ハインリヒは1181年11月に降伏し、1182年から三年間ドイツを追われて、義父ヘンリー2世のいるノルマンディーに滞在した。許可が下りる前に帰国したため、1188年に再び追放され、妻マティルダは1189年に没した。皇帝が第3回十字軍に出発すると、ザクセンに戻って軍を動かし、バルドヴィックを攻めて教会を除く全てを破壊した。
1194年、死期が近いのを悟って皇帝と和解し、領地をかなり減らされたブラウンシュヴァイクに戻って芸術と建築を振興した。1195年8月6日に没し、遺骸はブラウンシュヴァイク大聖堂の妻の隣に葬られた。その後バイエルンはヴィッテルスバッハ家へ、ザクセンはアスカーニエン家へ受け継がれ、次男のオットー4世は皇帝に即位した。
同じ年に亡くなった人物
- アリックス・ド・フランス (1150-1195) (1195年没)
- アグネス・フォン・ロホリッツ (1195年)
- テッサロニケのエウスタティウス (1195年)
- ボードゥアン5世 (エノー伯) (1195年没)
- アルブレヒト1世 (マイセン辺境伯) (1195年没)
同じ地域に関係する人物
- ペーター・グスタフ・ディリクレ (1859年没)
- オットー・モーダーゾーン (1943年没)
- フリッツ・ダーゲス (2009年没)
- ハインリヒ・ビュンティンク (1606年没)
- オットー・ラッシュ (1948年没)