HISTORICAL PERSON · 紀元前148年没

マシニッサ

ヌミディア王。ザマの戦いでヌミディア騎兵を率いてカルタゴ軍を破りローマの勝利に貢献し、晩年までカルタゴ領を侵して第三次ポエニ戦争の引き金を作った。

生涯
紀元前148年没
死亡地
—
出生地
—
出典
世界地図
位置情報未登録

伝記

マシニッサは、紀元前238年に生まれ、紀元前148年に没したヌミディアの王である。第二次ポエニ戦争の初めはカルタゴに協力していたが、のちにローマへ鞍替えし、ローマの後見を得てヌミディア王となった。ザマの戦いにも加わっている。

紀元前3世紀、ヌミディアは東のマッシュリと西のマサエシュリという二つの王国が並び立っていた。マシニッサはマッシュリ王ガイア(ガラとも)の息子として生まれた。ガイアはカルタゴと同盟していたため、若いマシニッサはカルタゴで貴族的な教育を受け、ギリシア語とカルタゴ語を学んだらしい。そこで将軍ハスドルバル・ギスコの娘ソフォニスバと婚約したとされる。第二次ポエニ戦争が始まると、ヌミディアはカルタゴと同盟してローマと戦い、25歳ほどのマシニッサは、カルタゴが得た騎兵を率いてイベリア半島のカルタゴ軍に加わった。マシニッサはヌミディア軍を率いてイベリア半島で戦い、ローマ軍に対してゲリラ戦を成功させたともいう。ところが大スキピオがイベリア半島のローマ軍司令官になると、敗北を重ねるようになった。そのころガイアが死に、マサエシュリ王シュファクスがマッシュリを併合したため、王国を失ったマシニッサは、わずかな騎兵を連れて大スキピオのもとに身を寄せた。

紀元前204年、大スキピオ率いるローマ軍は北アフリカに上陸し、迎え撃ったカルタゴとヌミディアの同盟軍を破って、シュファクスを捕虜にした。ローマ軍はそのままヌミディア本国に攻め入って制圧し、大スキピオを助けて功のあったマシニッサがヌミディア王に即位した。マシニッサは、もとは自分の許婚であった、シュファクスの妻ソフォニスバを妻としたが、これはローマに認められず、ソフォニスバは毒をあおって自死した。紀元前202年、カルタゴはイタリアから急に呼び戻したハンニバルに軍を率いさせて迎え撃たせ、大スキピオもヌミディアから軍を戻して、同年10月19日にザマの戦いが起きた。この会戦でマシニッサはヌミディア騎兵を率い、カルタゴ軍の後方を攻撃するという決定的な役割を果たして、ローマ軍を勝利に導いた。

ローマの後見でヌミディア王となったマシニッサは、生涯をかけて支配領域の拡大に努めた。ローマはカルタゴに対する防波堤を必要としていたため、ヌミディアを積極的に支援した。マシニッサは多くの部族を服属させ、ヌミディアをほぼ統一し、従わない部族はわずかだった。この拡大政策はカルタゴには大きな脅威であった。リウィウスの記述では、マシニッサはカルタゴの西部領を侵犯して70の村を襲撃したという。カルタゴは防衛体制を強めざるをえなかったが、それは第二次ポエニ戦争後にローマと結んだ和平条約に違反する行為であり、ローマの軍事介入を招いて第三次ポエニ戦争の引き金となった。古代の記述によれば、このとき90歳を超えていたマシニッサ自身が軍を率いたという。

マシニッサの没後、ヌミディアは息子のミキプサ、グルッサ、マスタナバルが支配する小王国に分割された。のちにユグルタ戦争を起こしてヌミディアの再統一を図ったユグルタは、その孫にあたる。マシニッサの名は、キルタ(現在のコンスタンティーヌ)近郊エル・フルーブの墓所から、リビア文字の子音表記で見つかっている。この名はベルベル語で「彼らの主」を意味するとも、単なる尊称であったともいわれる。また、マシニッサとソフォニスバは戯曲『ソフォニスバ、驚くべき女人』にも登場する。

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