伝記
プルシアス2世は、小アジア北西部のビテュニアのギリシア系の王である。「狩人」を意味する添え名で呼ばれ、紀元前220年ごろに生まれ、紀元前149年に没したとされる。在位はおよそ紀元前182年から紀元前149年にかけてで、先王プルシアス1世とアパマ3世の子として王位を継いだ。父は紀元前189年に死去したとされ、その時点から王となったとする記述もある。
治世の前半、プルシアスはペルガモンの王エウメネス2世と組み、ポントスの王ファルナケス1世との戦争(紀元前181年から紀元前179年)に加わった。婚姻の面では、母方の従姉妹にあたるアパメ4世を妻とした。彼女はマケドニア王ペルセウスの姉妹で、アンティゴノス朝の王女であった。二人のあいだには後継者ニコメデス2世と、のちにトラキア王コテュス4世の子ディエギュロスへ嫁ぐ娘アパマが生まれた。アイトリア同盟は、その振る舞いと厚意をたたえてデルフォイに碑を建てて彼を顕彰した。
ローマがマケドニアのペルセウスを破ると、プルシアスはローマに取り入ろうとした。ローマを訪れた彼は、頭を剃り、解放奴隷のような衣服や帽子を身につけ、自らを解放奴隷と称してローマ風のものを何でもまねたいと述べたという。元老院の前ではひざまずき、議員たちを救いの神々と呼んだとも伝えられる。歴史家ポリュビオスは、この王を王の品位に値しない人物と評した。また、残酷さや女性的な振る舞いのために嫌われたともいわれる。
帰国後のプルシアスは、ローマの同盟国であるペルガモンとの戦いを再開した(紀元前156年から紀元前154年)。当初は成功を収め、低い市街を荒らしたが、岩山に築かれた城塞は落とせず、戦利品を手に引き上げた。ペルガモン側の訴えを受けてローマは元老院の調査団を送り、紀元前154年に彼は征服地の返還と賠償を強いられた。賠償には500タラントンと「甲板付きの船20隻」が含まれた。
晩年、プルシアスは後の妻とのあいだに子をもうけ、その子らを後継者にしようとして、ニコメデスを退けようとした。ニコメデスはペルガモン王に迎えられたともされる。一方で、賠償の減額をローマに願わせるため、ニコメデスを使節として送り、同行したメナスには、使節が不首尾なら息子を殺すよう命じたという。使節は失敗に終わったが、ニコメデスはメナスを説き伏せて寝返らせ、自ら王を名乗った。プルシアスは王位を放棄せざるをえなくなり、ゼウスの神殿に逃れて嘆願者となったが、紀元前149年に殺害された。殺したのは息子とされ、冒涜的な行為のうえでニコメデス2世が王位に就いた。娘の夫であるトラキア王が、ニコメデスとの争いの際に五百人の護衛を送ったとも伝わる。
同じ年に亡くなった人物
- マシニッサ (紀元前148年没)
- マルクス・クラウディウス・マルケッルス (紀元前166年の執政官) (紀元前148年没)
- ルキウス・カルプルニウス・ピソ・カエソニヌス (紀元前148年の執政官) (紀元前 148年(推定))
同じ地域に関係する人物
- ヌメリアヌス (284年没)
- Nicomedes III of Bithynia (紀元前160)
- ニコメデス4世 (紀元前74年没)
- コンスタンティヌス1世 (337年没)
- Nicomedes II of Bithynia (紀元前160)