伝記
サモトラケのアリスタルコスは、古代ギリシアの文法家・文献学者で、アレクサンドリア学派に属した。生年は紀元前220年ごろ、没年は紀元前143年ごろとされるが、紀元前217年ごろから紀元前145年ごろとする記述もある。ホメロスの叙事詩を研究する学者としてのみならず、文献学そのものに大きな影響を与えた人物である。
サモトラケ島に生まれ、のちにアレクサンドリアの市民となって、プトレマイオス6世フィロメトルの治世にこの町で暮らした。ビュザンティオンのアリストファネスに師事し、アレクサンドリア図書館の司書となり、師の仕事を引き継いで館長になったとみられている。弟子には、のちに古代ギリシア語の文法学を体系化したトラキアのディオニュシオスがいる。師が用いた強勢の原則にならい、韻律の正確さに注意を払ってテクストに向かったといわれる。スーダ辞典によれば、彼は気難しい性格で身なりにも無頓着であり、40人いた弟子のうち詩人はシラクサのモスコスただ一人だったという。
アリスタルコスの最大の仕事は、ホメロスの詩の校訂である。「ホメロスからホメロスを理解する」と評されるとおり、彼は原典を批判的に検討しつつ編纂し、史上最も重要とされる版をまとめあげた。先達のエフェソスのゼノドトスやアリストファネスの成果を受け継ぎ、ヘレニズム期の付加を除いた元の本文を回復しようとした。疑わしい詩行を退けるときの厳しさはよく知られていた。疑わしい行や後世の挿入を示すために一組の校訂記号を整え、不審な読み、ゼノドトスとの意見の相違、位置のずれた詩行、むだな反復などを区別して印をつけた。『イリアス』と『オデュッセイア』をそれぞれ24巻本に編んだのも彼だとされるが、これはゼノドトスが行ったという説のほうが有力である。さらに彼は、断片的な注釈にとどまっていたそれまでの註釈者の流儀を改め、最初の連続した注解を著した。ヘシオドスなどを扱った個別の論考も書き、スーダ辞典は800冊もの注釈書を残したと伝えるが、今日それらはすべて失われ、断片的な古註として残るだけである。ギリシア語の用法において純粋で古典的とみなせる作家を並べた、いわゆるアレクサンドリアの正典を定めたのも彼とされる。
王家との関わりも深く、プトレマイオス8世とその甥プトレマイオス7世の教師役を務め、ホメロスについての本も書かせたという。しかし弟子であったプトレマイオス8世が兄に加担したとして迫害を始めると、アリスタルコスはキプロスへ逃れた。弟子たちもまた逃れざるをえなかったという。死をめぐっては諸説あるが、迫害を受けていた時期だった点では一致している。伝承では、亡命先で治らない水腫にかかり、自ら飢えて死ぬことを選んだとされる。
その学派は、散らばった弟子たちの評判のおかげでローマ時代まで影響を保った。1781年にヴェネツィアのサン・マルコ図書館で、ビザンティン時代の『イリアス』の写本が見つかった。余白には、アリスタルコスの弟子筋にあたる4人の学者の古註が付されていた。それはアリストニコスの批判記号の書、ディデュモスの校訂本についての覚書、ヘロディアノスやニカノルの著作からの抜粋であった。この写本は「ウェネトゥスA」と呼ばれ、彼のホメロス研究への貢献を再現する手がかりとなり、ホメロス問題の議論を再燃させた。その名は文芸批評と結びつき、批判的な評者を指して「アリスタルコス的」という言葉が生まれたほどである。
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