伝記
ケレスティヌス3世は、第175代のローマ教皇で、1191年3月30日から1198年1月8日まで在位した。ローマの出身で、本名をジャチント・ボボーネといい、オルシーニ家を祖先に持つ貴族のボボーネ家に生まれた。教皇になる前はパリで神学者ピエール・アベラールに学び、1140年に師を弁護したが果たせなかったという。1144年には、同じくアベラールの弟子であった教皇ケレスティヌス2世によって助祭枢機卿に叙任され、以後47年間にわたり教皇庁に仕えた。
アレクサンデル3世のもとでは教皇使節として外交に手腕を発揮し、アレクサンデル3世と皇帝フリードリヒ1世の争いや、イングランド王ヘンリー2世とカンタベリー大司教トマス・ベケットの対立では、妥協的な政策を唱えた。レコンキスタにも関わり、1172年にムワッヒド朝の軍がウエテを包囲すると、救援に加わる者に免償を約束し、軍勢を集めるカスティーリャ王アルフォンソ8世を援助した。
1191年3月30日に教皇に選ばれたとき、すでに85歳だったと考えられる。助祭のままだったため、4月13日に急いで叙階され、翌14日に教皇として聖別された。旧友ケレスティヌス2世にちなんで、ケレスティヌス3世を名乗った。15日には皇帝ハインリヒ6世に帝冠を授けて教皇の権威を示したが、老齢と温和な性格が災いしたのか、ハインリヒ6世によるシチリアの征服を咎めなかった。1193年にイングランド王リチャード1世を無実の罪で投獄したとして皇帝を破門し、翌年に和解してリチャードの解放に手を貸した。だが皇帝のシチリア再征服は咎めないままで、皇帝が十字軍派遣を約束した際にもためらって怒りを買ったという。
皇帝には優柔不断な態度をとったが、イベリア半島のキリスト教諸国には、しばしば介入した。アルフォンソ8世を一貫して支持し、1192年にはキリスト教諸国へ休戦を呼びかけ、カスティーリャをアラゴンやレオンと和睦させ、聖ヨハネ騎士団にはムワッヒド朝との戦闘を命じた。カスティーリャとの戦争をやめないレオン王アルフォンソ9世とナバラ王サンチョ7世には警告を発し、1196年にはアルフォンソ9世を破門して家臣の服従義務を解くと宣言し、サンチョ7世をアルフォンソ8世支持に転じさせた。翌1197年4月にはアルフォンソ9世と戦う者に免償を与えるとまで宣言し、キリスト教諸国の抗争を何とか収めた。フランス王フィリップ2世の離婚問題にも関わり、王に一方的に離縁された王妃インゲボルグの訴えを聞き入れて、1196年3月13日に王へ訓告を下した。インゲボルグの存命中は別の結婚を認めず、王がその後に結んだアニェス・ド・メラニーとの結婚も無効だとしたが、王は聞き入れなかった。この問題は、次の教皇インノケンティウス3世が1199年に王の破門と聖務停止命令を宣告する事態へと続く。
1197年にハインリヒ6世が没すると、後を追うように病に倒れ、死の直前に教皇職を辞して後継を指名しようとしたが、枢機卿たちに拒まれた。1198年1月8日にローマで亡くなり、遺体はサン・ジョヴァンニ・イン・ラテラノ大聖堂に葬られた。優柔不断さは歴史家に非難されたが、ドイツ騎士団、テンプル騎士団、聖ヨハネ騎士団を認可して、ローマ教会に貢献した。
同じ年に亡くなった人物
- ソフィヤ・ウラジミロヴナ (1198年没)
- ドゥルセ・ベレンゲル・デ・バルセロナ (1198年没)
- グリエルモ3世 (1198年没)
- イブン・ルシュド (1198年没)
- マリー・ド・フランス (1145-1198) (1198年没)
同じ地域に関係する人物
- マリオ・チェッキ・ゴーリ (1993年没)
- メッティウス・フフェティウス (紀元前672)
- ジェロラモ・カルダーノ (1576年没)
- ガブリエラ・トゥッチ (2020年没)
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