伝記
コスタンツァは、1194年から1198年までシチリア女王をつとめた、オートヴィル家の最後の君主である。1154年11月2日に生まれた。父はシチリア王ルッジェーロ2世、母は3人目の妃ベアトリーチェで、父は生まれる前の2月に亡くなっていた。王女としては異例なことに、30歳になるまで結婚が決まらなかったため、のちに、修道女になったとか、結婚が教皇の許しを必要としたといった話が生まれた。ボッカッチョは、その結婚がシチリアを滅ぼすという予言のために、独身のまま閉じ込められたと書いた。ダンテも『神曲』で、当時の口伝に従って彼女を修道女としたらしい。甥のグリエルモ2世に子がなかったため、1185年に、貴族らによって王位継承者と定められたといわれる。
1184年10月29日、アウクスブルクの司教館で、ローマ王ハインリヒ6世との婚約が発表された。1185年に、コスタンツァは盛大な行列とともにミラノへ行き、1186年1月27日、ミラノのサンタンブロージョ聖堂で結婚した。ハインリヒは21歳で、31歳の彼女より10歳年下だった。この結婚の見返りに、皇帝フリードリヒ1世は南イタリアに対する権利を放棄した。
1189年11月にグリエルモ2世が子のないまま亡くなると、王位はコスタンツァか、夫のハインリヒ6世が継ぐはずだった。しかし、シチリア人は、外国に嫁いだ王女や皇帝に支配されるのを嫌い、1190年1月、グリエルモ2世の従兄タンクレーディを王に立て、教皇がこれに封を授けた。ハインリヒと妻は、皇帝と皇后となったのち、シチリアを奪おうと軍を進めたが、タンクレーディの抵抗に遭ってナポリで大敗し、同行していたコスタンツァは捕虜になった。しかし、すぐに無事に解放された。神聖ローマ帝国の歴史で、捕虜となった皇后は、ほかには姑のベアトリクスだけである。
1194年2月20日にタンクレーディが死に、グリエルモ3世が継いだが、ハインリヒはシチリアにふたたび遠征して王位を奪い、夫妻は戴冠して、シチリアの王と女王になった。同じ年、コスタンツァは、当時としては高齢の40歳で、息子フリードリヒ、のちの皇帝フリードリヒ2世を産んだ。出産を証明するため、町の広場に設けた天幕のなかで、貴婦人たちが見守るなか産んだといわれる。初産が遅かったため、死後すぐに、反シュタウフェン派の史書にはさまざまな噂が記されることになる。1195年の復活祭、夫の不在中は、シチリアの政務をとり、自分で問題を処理し、自ら文書を出した。確かな証拠はないが、夫に対する謀反の企てに加わったと信じられている。
1197年9月に夫が急死すると、コスタンツァは、フリードリヒの摂政として実質的な政務をとった。皇帝位をめぐっては、息子の権利を、義弟のシュヴァーベン公フィリップに譲った。ドイツ人を嫌い、ハインリヒがシチリアに封土を与えたドイツ貴族の追放をはかり、最高指揮官マルクヴァルト・フォン・アンヴァイラーらを追い出した。しかし、この行動はドイツ貴族を息子の敵に回し、その抵抗で、以後10年ものあいだ、シチリアは内乱に陥った。1198年にフリードリヒがシチリア王位を継ぎ、同じ年の11月27日、コスタンツァは夫を追うように亡くなった。幼い息子は、遺言によって教皇インノケンティウス3世に託された。
同じ年に亡くなった人物
- ケレスティヌス3世 (ローマ教皇) (1198年没)
- Abu Madyan (1198年)
- George II of Constantinople (1198年)
- ローリー・オコナー (1198年)
- フリードリヒ1世 (オーストリア公) (1198年没)
同じ地域に関係する人物
- ジョヴァンニ・ファルコーネ (1992年没)
- ジュゼッペ・インパスタート (1978年没)
- グリエルモ2世 (1189年没)
- エレオノラ・ロッシ=ドラゴ (2007年没)
- ルイ・フィリップ・ロベール (オルレアン公) (1926年没)