HISTORICAL PERSON · 1199年没

源頼朝

鎌倉幕府初代征夷大将軍。源義朝の三男で、平治の乱で父が敗れて伊豆に配流された。以仁王の令旨を受けて挙兵し、弟たちを代官に平家を倒した。義経を追放して守護・地頭を置き、奥州合戦で奥州藤原氏を滅ぼした。

生涯
1199年没
死亡地
日本(神奈川県 / 鎌倉市)
出生地
日本(熱田区)
出典
世界地図
日本(神奈川県)

伝記

源頼朝は、平安時代末期から鎌倉時代初期の武将・政治家で、鎌倉幕府の初代征夷大将軍である。清和源氏の一流である河内源氏の源義朝と、正室の由良御前の間に生まれた嫡男(三男)で、母は熱田大宮司・藤原季範の娘であった。久安3年(1147年)4月8日、尾張国熱田にあった季範の別邸で生まれたとされるが、京都出生説もある。幼名は鬼武者、または鬼武丸といい、乳母には比企尼、寒河尼、山内尼がいた。父義朝は保元の乱(1156年)で後白河天皇側に立って戦勝し、崇徳上皇側だった父為義の助命を戦功に替えて願ったが許されず、父と弟たちを斬首して左馬頭に任ぜられた。

頼朝自身は保元3年(1158年)に統子内親王の皇后宮権少進となり、翌年に内親王が院号宣下を受けると上西門院蔵人に補された。同年1月には右近衛将監、6月には二条天皇の蔵人にも任ぜられた。長兄の義平が無官とみられ、次兄の朝長より昇進も早かったことから、母の家柄が高い頼朝が義朝の後継者として遇されていたとみられている。平治元年(1159年)12月、義朝は藤原信頼とともに挙兵して後白河上皇と二条天皇を捕らえ、信西を追討した。14日、13歳の頼朝は右兵衛権佐に任ぜられたが、清盛らの攻撃を受けて義朝らは敗れ、東国を目指して京を逃れた。

永暦元年(1160年)2月、頼朝は近江国で捕らえられて六波羅に送られ、死刑は当然と見られたが、清盛の継母である池禅尼の嘆願などにより死一等を減ぜられ、3月11日に伊豆国へ流された。次兄朝長は美濃で落命し、義朝は尾張で長田忠致に謀殺され、義平は都で処刑された。流人時代の史料はほとんど残っておらず、配流地として知られる蛭ヶ小島も北条氏の支配領域で、当初から住んだのかは不明である。ただ、乳母の比企尼が夫とともに武蔵国比企郡に下り、20年にわたり米を送って支えた。また、安達盛長や河越重頼らが側近として仕え、箱根権現や走湯権現に帰依して亡父や一門を弔う日々を送ったという。乳母の甥三善康信から京の情報も得ていた。この間、北条時政の長女政子と結ばれ、長女大姫をもうけた。

治承4年(1180年)、後白河法皇の皇子以仁王が平家追討の令旨を発し、4月27日に叔父の源行家が伊豆の頼朝にも届けた。以仁王は宇治で敗死したが、頼朝はしばらく静観した。しかし、平家が令旨を受けた源氏の追討を企てると、危機を悟って挙兵を決意した。8月17日に北条時政らが山木兼隆を討ったが、23日の石橋山の戦いでは平家方の大庭景親らに敗れ、山中に逃れたのち、28日に船で安房国へ脱出した。安房で再起を果たし、上総広常や千葉常胤らを加えて、10月6日に父義朝や兄義平がかつて住んだ鎌倉に入った。その後、富士川の戦いで平家軍を退け、鎌倉では和田義盛を侍所の別当に任じた。挙兵の直後から、御家人の所領を保証する本領安堵や、敵方の没収所領を与える新恩給付を朝廷の枠にとらわれず行い、寿永2年(1183年)2月の野木宮合戦を経て、坂東に敵対する勢力はなくなったという。

のちに頼朝は、弟たちを代官として平家を倒し、反逆した末弟の義経を追放して、諸国に守護と地頭を置いて力を強めた。奥州合戦で奥州藤原氏を滅ぼし、建久3年(1192年)7月12日に征夷大将軍に任じられた。京都を中心とする平氏政権とは異なる、東国の独立した武家政権が開かれ、後に鎌倉幕府と呼ばれた。頼朝は1199年に没した。

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