伝記
レーモン4世は、1169年から1172年ごろに生まれ、1197年の初め(1198年から1199年とも)に没した、トリポリ伯であり、アンティオキア公ボエモン3世の長男である。アンティオキアのレーモンとも呼ばれる。母はオルグイユーズ・ド・アレンクである。彼は、父のアンティオキア公国の後継者に指名されていた。1187年から1189年にトリポリ伯の位にあったと数えられ、1193年から1194年には、父の捕囚中にアンティオキア公国の摂政を務めた。1187年のヒッティーンの戦いでは、トリポリ伯レーモン3世の軍勢とともに前衛にいたという。
1187年、彼の代父であるトリポリ伯レーモン3世が、生き残った子のないまま死に、レーモンを後継者に指名した。しかしボエモン3世は、年下の息子ボエモンを遣わしてトリポリを手に入れさせ、レーモンはアンティオキアに連れ戻された。この移譲は、レーモンがアンティオキアの後継者で、トリポリは年下の息子に領地の基盤を与えるものだ、という父の王朝上の考えを反映していた。それは、ヒッティーンの戦いと、サラディンによるトリポリ伯領とアンティオキア公国の大部分の征服のなかで、ラテン人の国々が急速に衰えていった時期にあたる。レーモンの個人としての権限がどこまでトリポリに及んだかは、はっきりしない。
1193年10月、キリキア・アルメニアのレオン1世が、バグラス要塞をめぐる交渉の最中に、ボエモン3世を捕らえた。レオンは、この捕囚を利用して、アンティオキアでの地位を強めようとした。ギリシア人とラテン人からなる町の市民は、これに抵抗し、コミューンをつくって、父が釈放されるまで、レーモンをアンティオキアの領主と認めた。レーモンは、ボエモン3世の捕囚中、アンティオキアの事実上の支配者となった。弟のトリポリ伯ボエモンも、彼を助けにアンティオキアに来た。危機は、エルサレム王シャンパーニュ伯アンリの仲介で解決した。ボエモン3世はキリキア・アルメニアに対する宗主権の主張を放棄し、レオンがバグラスを持つことを認め、レオンは彼を釈放した。
この和解の一環として、1195年の初めごろ、レーモンは、ルーベン3世の娘で、レオン1世の姪にあたるアリスと結婚した。この結婚により、アンティオキアの支配家はキリキアのアルメニア王国と結ばれ、レーモンのアンティオキア後継者としての立場が固まった。ボエモン3世は、そののち、アンティオキアの諸侯のあいだで、レーモンが後継者であることの承認を取りつけた。レーモンとアリスの間には、息子のレーモン・ルーベンが生まれた。レーモンは、アリスが身ごもったまま、1197年の初めに死んだため、レーモン・ルーベンは、父の死後に生まれた。
その後、ボエモン3世はアリスと幼子をキリキアへ送った。1198年の初めごろ、教皇特使のマインツ大司教コンラートがアンティオキアの継承に介入し、ボエモン3世は諸侯を集めて、レーモン・ルーベンを後継者と認める誓いをさせた。しかし、その主張には異論があり、叔父のトリポリ伯ボエモンは、自らの主張を続けた。アンティオキアのコミューンなど、アルメニアの影響が強まることに反対する者たちは、ボエモンを支持するようになった。1198年の終わりか1199年の初めに、ボエモンはアンティオキアの支配を奪った。1201年にボエモン3世が死ぬと、ボエモンがアンティオキア公となったが、レーモン・ルーベンは、レオン1世と一部の貴族の支持を得て、主張を続けた。この争いはアンティオキア継承戦争と呼ばれ、1219年まで続いた。
同じ年に亡くなった人物
- 源頼朝 (1199年没)
- イロナ・フォン・ウンガルン (1199年没)
- マラ・テクレ・ハイマノート (1199年(推定))
- ベネディクタ・ヴィーゼ (1199年没)
- ヤアクーブ・マンスール (1199年没)
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