伝記
ジョルジュ・ソレルは、1847年11月2日に生まれ、1922年8月29日に没した、フランスの哲学者、社会理論家で、フランスにおけるマルクス主義の紹介者である。シェルブールの商人の家に生まれ、1864年にパリへ出てコレージュ・ロランに通い、翌年エコール・ポリテクニークに入った。1869年に土木局の技師長となり、1871年6月まではコルシカ島に駐在し、そののち南フランスのアルビ、ガップ、ドラギニャンなどに配属された。1876年から1879年はアルジェリアのモスタガネムに勤め、その後ペルピニャンで技官としての最後の年月を過ごし、1892年に退職した。1891年にはレジオン・ドヌール勲章を受けた。退職後は、パートナーのマリー・ダヴィドとともにパリ近郊のブーローニュ=シュル=セーヌに移り、死去するまでそこで暮らした。
1880年代後半から、水文学、建築学、科学哲学、精神物理学、政治史、哲学など様々な分野の論文を発表し、そこにはアリストテレスやテーヌ、ルナンの影響が見られた。しだいに社会問題を研究するようになり、1893年に、自らがマルクス主義者で社会主義者であることを公に表明した。フランス最初期のマルクス主義の雑誌で仕事を始め、ベルンシュタインが始めた論争にも修正主義の側から参加した。1890年代には、労働組合の団結と闘争を説き(1898年)、反議会主義と直接行動への志向が、当時の知識人と労働者に歓迎された。ドレフュス事件のときには、ドレフュスを支持し、反ユダヤ主義にも反対したが、のちに友人ペギーと同様、裁判の政治的な帰結に失望した。
二十世紀の初めには、社会主義と議会制民主主義は両立しないと論じ、サンディカリスムの立場に移った。1905年ごろ、革命的サンディカリスムの理論的な形成に貢献し、同年、最も有名な『暴力論』の連載が始まった。これは1908年に書籍として刊行され、同年『進歩の幻想』が続いた。マルクス主義理論の弱点と考えたものを補おうとし、最終的には、ベルンシュタインの右派的な修正主義とは区別される、史的唯物論と弁証法的唯物論、プロレタリア国際主義を拒絶した左派修正主義を主張した。正統派マルクス主義の「歴史の必然」を信じず、慎重に考案された「神話」が大衆を一致した行動に導くと考えた。そのため、ゼネラル・ストライキ、ボイコット、サボタージュによって資本主義を分裂させ、労働者による生産手段の統制をもたらすことを行動指針とした。
第一次世界大戦前には、革命的サンディカリスムと民族主義との総合の可能性を探った。1909年から翌年には、アクション・フランセーズのモーラスに関わった時期があるが、王政主義や統合的民族主義は採らなかった。1914年の聖なる団結による政治的休戦には強く反対し、戦争を非難して、1917年にはロシア革命を賞賛した。主著『暴力論』第五版の付録に「レーニンのために」という論文を書き、憲法制定会議をボイコットして社会主義を宣言したレーニンの行為を弁護したが、レーニンはソレルの言動には全く否定的だった。ムッソリーニに英雄的な言葉を向けたこともあった。
彼の著書はパレートとクローチェに絶賛された。思想はカトリック・反民主主義の政治傾向、特にファシズムに絶大な影響を与え、ムッソリーニは「ファシズムの精神的な父」「私の師」と発言し、「私自身はソレルに最も負っている」と述べた。1932年10月、ムッソリーニの命令で、イタリアの駐仏大使は、放置されたソレルの墓の手入れと記念碑の建立を遺族に申し出たが、拒否された。
同じ年に亡くなった人物
- マリー・フォン・シュヴァルツブルク=ルードルシュタット (1922年没)
- ネリー・ルーセル (1922年没)
- マックス・アブラハム (1922年没)
- レスリー・ウォード (1922年没)
- ポール・デュラン=リュエル (1922年没)
同じ地域に関係する人物
- ベルナール・ブリエ (1989年没)
- エマニュエル・ムーニエ (1950年没)
- ジュール・デュモン・デュルヴィル (1842年没)
- マルセル・グラネ (1940年没)
- ジョゼフ・ダルナン (1945年没)