HISTORICAL PERSON · 1922年没

エリエゼル・ベン・イェフダー

ロシア帝国生まれで、1881年にパレスチナへ移り、ほぼ独力で現代ヘブライ語を話し言葉として復活させた中心人物。息子は約2千年ぶりにヘブライ語を母語とする最初の子となり、全17巻の大辞典の編纂も始めた。

生涯
1922年没
死亡地
イスラエル(エルサレム地区 / エルサレム)
出生地
ベラルーシ共和国(Luzki)
出典
世界地図
イスラエル(エルサレム地区)

伝記

エリエゼル・ベン・イェフダーは、1858年1月7日にロシア帝国ヴィリナ県のルジュキーという町(現在のベラルーシ北部)で生まれ、1922年12月16日に没した、現代ヘブライ語復活の中心人物である。ロシア帝国からパレスチナに移り住み、ほぼ独力でヘブライ語を話し言葉として現代に復活させた。元の名はエリエゼル・イツハク・ペレルマンといったが、自分の名もヘブライ語にした。ベン・イェフダーとは「ユダの子」という意味である。幼いころ、ヘブライ語に翻訳された『ロビンソン・クルーソー』を読んで衝撃を受けたといわれる。息子のベン・ツィオンは、生まれて数年間をヘブライ語のみで教育され、約二千年ぶりにヘブライ語を母語として話す最初の人物となった。古代の言葉が日常で使われるようになったのは、歴史上唯一の出来事である。彼が編纂を始めた全17巻のヘブライ語大辞典は、死後に完成した。

両親はハシディズム系のヘデルを運営しており、将来ラビになることを期待して、彼をイェシーバーで学ばせた。これは当時の東ヨーロッパのユダヤ人社会では通常のことで、そこで宗教的なものから世俗的なものまで、ヘブライ語文学に触れた。5歳で父が亡くなり、経済的な理由から母の弟のもとに送られ、イェシーバーでの教育を受け続けたが、14歳のとき、ヘブライ語で書かれた世俗的な本を読んでいるのを見つけられて勘当された。ヴィチェプスクのヨナス家に引き取られ、一家の長女デボラからフランス語、ドイツ語、ロシア語を習い、勉強を続けるため、ダウガフピルスの学校に送られた。

1878年、医学を学ぶためパリのソルボンヌ大学に留学したが、最も関心を持ったのはヘブライ語のクラスだった。そこでは授業がヘブライ語で行われており、ヘブライ語を日常言語として復活させるという決意を固めさせた。留学中にヘブライ語でいくつかの論説を発表し、1879年にはヘブライ語の月刊誌『夜明け』に、初めての政治的な論説『重要な質問』を載せた。「イスラエルの民は、イスラエルの地でヘブライ語を使用すべきである、なぜなら共通の言語なしに民族は成り立たないからである」と述べ、初めて「ベン・イェフダー」と署名した。1881年に医学の勉強をやめて、パレスチナに移住した。ヨナス家の幼なじみのデボラと結婚し、エルサレム旧市街に粗末な部屋を借りて住んだ。新聞『ハヴァツェレット』に記事を書き、1884年にはヘブライ語新聞『ハツヴィ』を自ら発行・編集した。

彼は、疲れを見せることなく、ヘブライ語を日常言語に生まれ変わらせようと取り組んだ。情熱に文句を言う知り合いにも、「ヘブライ語を話しなさい、そうすれば不平も無くなるだろう」と答えたという。ヘブライ語のみで授業をするイスラエル最初の小学校のために教科書を書き、教壇にも立った。1890年に設立された「ヘブライ語委員会」の代表に就任した。1891年に妻デボラが結核で亡くなると、その妹ヘムダが子供たちの養育を手伝うようになり、1892年に結婚した。しかし、シオニズム運動以前からパレスチナに住むユダヤ人たちの怒りを買い、彼らはオスマン帝国の当局に、反乱を企てていると申し立てた。ベン・イェフダーは投獄されたが、世論の後押しで短期間で釈放された。1913年にはヘブライ語の地位をめぐる「言語戦争」が起き、1914年2月、ヘブライ語支持者の勝利に終わった。1919年、イギリスの委任統治当局が、ヘブライ語をパレスチナの公用語の一つと宣言した。ベン・イェフダーは1922年12月16日に結核で亡くなり、エルサレムのオリーブ山に葬られた。

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