伝記
エルサレムのナルキッソスは、初期教会のエルサレム司教で、聖人として西方教会と東方教会の双方から崇敬されている人物である。祝日はカトリック教会では10月29日、正教会では8月7日とされる。没年は211年ともおよそ216年ともいわれ、出自ははっきりしない。ギリシア系とされ、伝承では99年の生まれで、エルサレムの第30代司教に就いたときにはすでに80歳以上だったという。先代の司教ドリキアヌスのあとを、185年ごろに継いだと考えられている。
2世紀の末ごろ、ナルキッソスはカエサレアのテオフィロスとともにパレスチナの司教たちを集めて会議を開いた。これは復活祭の日取りをめぐる会議で、ローマ司教ウィクトルが全教会に日曜日の復活祭を押しつけようとしたことが背景にある。カエサレアのエウセビオスが引くごく短い文章は、パレスチナとアレクサンドリアの教会が復活祭について一致していることを述べており、ナルキッソスらがウィクトルに宛てた返答の一部かもしれないと考えられている。なお、この会議では復活祭を常に日曜日に祝い、ユダヤ人の過越祭には合わせないと決められたとも伝えられる。
ナルキッソスは人望のある司教で、多くの奇跡が語られてきた。ある年、復活祭の前夜の徹夜祈祷で、聖堂の灯火にさす油が足りなくなり、信徒たちは嘆いた。ナルキッソスは助祭たちに水を汲ませ、祈ったうえで、その水を灯火に注がせた。水はたちまち油に変わったという。エウセビオスの時代にも、この油の一部がエルサレムに保存されていたといわれる。
のちにナルキッソスは、共同体の三人の者から重大な罪を犯したと中傷された。三人は、偽りであれば自分は火に焼かれ、らい病に蝕まれ、盲目になるようにと誓った。誰もこの中傷を信じなかったが、深く心を痛めたナルキッソスはエルサレムを去り、荒れ野で人目を避けて何年も暮らしたとされる。その間に近隣の司教たちは、ディオス、ゲルマニオン、ゴルディオスと三人の司教を相次いで立てた。やがて二人の中傷者は誓いどおりに世を去り、残る一人は恐れて陰謀を白状し、涙を流しすぎて視力を失ったという。
ナルキッソスが戻ると、人々は一致して復帰を求め、以前にも増して慕った。しかし高齢で職務が重くなっていたため、アレクサンドロスを補佐の司教に迎えた。アレクサンドロスはのちにアンティノエのキリスト者に宛てた手紙で、ナルキッソスが116歳であり、自分とともに一致と平和を勧めていると述べている。ナルキッソスは祈りによって信徒を支え、教会の一致と平和を説き続けた。ただし、荒れ野への隠遁や後任の司教たちの話は伝説的で、年代も整合しないとされる。この話は、エルサレム教会で起きた重大な対立の記憶を伝えているのかもしれないが、詳しいことは分かっていない。
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