HISTORICAL PERSON · 紀元前138年没

ディオドトス・トリュフォン

セレウコス朝の将軍・王。幼王アンティオコス6世を擁立し操ったのち暗殺して王位を奪ったが、討伐に来たアンティオコス7世に追われ処刑された。

生涯
紀元前138年没
死亡地
トルコ共和国(ハタイ県 / アンティオキア)
出生地
—
出典
世界地図
トルコ共和国(ハタイ県)

伝記

ディオドトス・トリュフォンは、セレウコス朝シリアの将軍で、のちに王となった人物である。在位は紀元前142年から紀元前138年とされ。もともとはアパメイアに属する町の出身で、アレクサンドロス1世バラスに仕えて将軍を務めた。バラスとデメトリオス2世ニカトルが内戦を戦うなか、紀元前145年にバラスの岳父であるエジプト王プトレマイオス6世がデメトリオス2世の側に回ってシリアへ侵攻した。このときトリュフォンはヒエラクスという人物とともにアンティオキアの指揮を執っており、同市をプトレマイオスに明け渡して王位を差し出した。しかしプトレマイオスはエジプトとセレウコス朝の両方を直接治めることを望まず、称号を辞退してデメトリオス2世に譲ったという。

デメトリオス2世は王位を固めると、バラスの旧臣を排除しはじめた。トリュフォンは身の危険を感じたのか、バラスの幼い子を預かっていたアラブの首長ザブディエル(イマルクエとも)のもとへ逃れたと考えられている。そして、その支援を得て、まだ5歳に満たない子をアンティオコス6世ディオニュソスとして擁立し、自らは摂政として実権を握った。マカバイ記1は、軍隊がデメトリオスに不満を募らせているのを見て好機をつかんだ人物としてトリュフォンを描いている。デメトリオスは財政難にもあえぎ、当初は動かなかったため、トリュフォンはカルキスの本拠に大軍を集めた。のちにデメトリオスが攻めてきたものの敗れ、トリュフォンはアパメイアとアンティオキアを押さえた。貨幣の証拠からは、アパメイアが紀元前144年の初め、アンティオキアが同年末か紀元前143年の初めに取られたとされる。こうして内陸シリアの大半を握った一方、デメトリオスは海岸のセレウキア・ピエリアを拠点に沿岸諸都市とキリキアを保った。

トリュフォンはユダヤにも手を伸ばした。ハスモン朝のヨナタンに栄誉を与え、その兄弟シモンを将軍に任じて味方に引き入れたのである。だがヨナタンがデメトリオス派を果敢に攻めるのを見て、その力を恐れ、陰謀をめぐらせたと伝えられる。紀元前143年頃とも紀元前142年ともされる時期に、ベテ・シャンへ出兵して少数の護衛だけを連れたヨナタンをプトレマイスへ誘い出し、捕らえた。シモンは身代金を払ったが、トリュフォンはヨナタンを処刑し、エルサレムを攻めようとした。大雪のため包囲を断念してシリアへ戻ったという。ハスモン朝はシモンのもとで結束した。同じ年、トリュフォンの軍はプトレマイスとティルスの間でサルペドンの率いるデメトリオス派の軍を破ったが、海岸沿いに追撃するなかで津波に呑まれて全滅したと、アテナイオスは伝えている。

紀元前142年末か紀元前141年初め、アンティオコス6世が死んだ。医療の手術の最中に死んだとされるが、古代の史料の多くはトリュフォンが幼王を殺させたと非難している。トリュフォンは軍に推されて自ら王となり、トリュフォン・アウトクラトルを名乗った。「トリュフォン」は贅沢を意味するトリュフェに由来し、これは軟弱を意味する悪い言葉にも、支配者の豊かさを示す美徳にもなりえた。セレウコス朝の歴史で、王朝外から出て王国全体を掌握した反乱者は彼だけだといわれる。紀元前139年から紀元前138年には唯一の支配者となった。だが各地で反乱が相次ぎ、デメトリオス2世の弟アンティオコス7世シデテスが即位してまもなく攻撃してきた。トリュフォンはドルへ逃れて包囲され、さらにトリポリ北方のオルトシアへ逃げたが、まもなくシデテスに捕らえられ、紀元前138年に処刑されたといわれる。自殺したとの説もある。

同じ年に亡くなった人物

同じ地域に関係する人物