HISTORICAL PERSON · 紀元前138年没

アッタロス2世

アッタロス朝ペルガモン王。兄エウメネス2世に忠誠を尽くしフィラデルフォスと呼ばれ、ローマと結んで安定を保ち学問芸術を保護した。

生涯
紀元前138年没
死亡地
トルコ共和国(イズミル県 / ペルガモン)
出生地
—
出典
世界地図
トルコ共和国(イズミル県)

伝記

アッタロス2世は、アッタロス朝ペルガモン王国の第4代国王(在位は紀元前159年から紀元前138年)である。紀元前220年に生まれ、前138年に没した。「愛兄王」を意味するフィラデルフォスと呼ばれ、アッタリアの町を建てた人物でもある。アッタロス1世と、キュジコス出身の王妃アポッロニスの第2子で、兄はエウメネス2世である。母がセレウコス朝の王女だったともいわれる。兄は跡継ぎとして育てられ、アッタロスは兄に忠誠を尽くすよう教えられ、晩年までその教えを貫いたため、フィラデルフォスの名で呼ばれるようになったという。

王になる前から有能な軍人であった。紀元前192年には兄に派遣されてローマへ行き、アンティオコス3世への警戒を訴えた。紀元前190年にはマグネシアの戦いに加わり、紀元前189年ごろにはグナエウス・マンリウス・ウルソの率いるローマ軍とともにガラティアで戦った。紀元前182年から紀元前179年のあいだには、ファルナケス1世のポントスを破って領土を得た。紀元前172年、ローマ訪問からの帰途にあった兄エウメネスがキルラ付近で襲われ、死んだと思われた。それを聞いたアッタロスは兄の未亡人ストラトニケと結婚し、ペルガモンの王となった。しかし兄が戻ると、ストラトニケと離婚し、争わずに権力を兄に返した。外交使節としてローマをしばしば訪れ、アンドロニコスらの使節も送ってローマ人の評価を得た。ローマ側から兄を倒す援助を申し出られたことがあったが、断ったという。

紀元前160年には病弱な兄との共同統治者となり、兄が紀元前159年に死ぬと、甥(のちのアッタロス3世)が幼かったため、摂政として王位に就いた。そしてストラトニケと再び結婚した。紀元前156年から紀元前154年のビテュニア王プルシアス2世との戦いでは、ローマの援助を受けた。トラキアへの遠征ではカイニ人の王ディエギュリスを破って捕らえた。紀元前152年夏には、プトレマイオス6世、アリアラテス5世、ローマとともに、僭称者アレクサンドロス・バラスがデメトリオス1世からセレウコス朝の王位を奪うのを助けた。紀元前149年には、ニコメデス2世が父プルシアス2世からビテュニアの王位を奪うのを助けた。プルシアスはローマ元老院から奪った領土の返還と罰金の支払いを命じられ、息子ニコメデスをローマに送って支払いを免れようとしたが、第二の結婚で生まれた息子たちに継がせるため、ニコメデスを殺そうとしたという。アッタロスはニコメデスを父への反乱へと促して、プルシアスを滅ぼした。

アッタロスはローマが敵対するビテュニアなどと戦うのに同調し、マケドニア戦争に勝って東方へ勢力を広げたローマとの、兄の時代からの友好政策を保ち、その意向に同調したため、「ローマの番犬」とも呼ばれる。親友のカッパドキア王アリアラテス5世の助けを得て領土を広げ、フィラデルフィアとアッタリア(現在のアンタルヤ)を建設した。学問と芸術の保護者として知られ、新しい種類の刺繍を考案したともいわれる。治世は西も東も他国の侵略がなく安定し、兄と同様にペルガモン文化の保護政策を採ったため、学問や芸術が大きく花開いた。

晩年には、宰相フィロポイメンの助けを借りて統治した。パルティア人の襲撃を退けたともされる。長く生き、二十年にわたって王位にあり、紀元前138年に没して、後見していた甥のアッタロス3世に王国を残した。

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